おまじない

 昨夜の雷雨はことさら激しく、人々の眠りを何度も妨げた。いざ朝が来たところで、空は薄墨で塗り潰したかのように陰鬱とし、空気は湿気を多分に含んで髪の毛や衣服にまとわりついて、心と体を重たくさせる。

 加藤紬カトウツムギも塞ぎ込んでいる内のひとりで、通っている中学校の教室で雑巾をモップに引っ掛けながら、暇な友人とつるんでいた。


「小指の爪を七ミリ伸ばすと願いが叶うとかさ、知らない?」

「知らないしキショいし、それネイルじゃダメなん? そういうのじゃなくて、おまじないってもっとさあ、消しゴムに好きな人の名前書くとかそういうのちょうだいよ」


 話を振ってきた男のクラスメイトに、紬の女友達の大山恵麻オオヤマ エマが長い茶髪を揺らし、嫌そうに顔を顰めて注文をつけると、彼はそんな反応の何が嬉しいのか「分かってねーな」とにやにやする。


「この意味がなさそうな気色の悪いおまじないの方が、案外効いたりするんだよ」

「やったことあんの?」

「途中で爪割れた」

「論外。ねえ、ツムギはなんか面白いおまじないとか知らない?」


 まさか自分にまで話が及ぶとは思っていなかったツムギは、動揺にひと声漏らし、鎖骨に垂らした黒髪を撫でながら逡巡すると、


「昔、千切れたら願いが叶うとか言って手首に紐つけてたらしいよ」

「ミサンガ!」

「いいじゃん、一周まわってまた流行りそお」


 苦し紛れの一言を明るく迎えられて、紬は内心ほっとする。上の空で話に付き合っていた事はばれたくなかったし、だからといって深い話にする気は今はなかった。場がしらけなかった事に何よりも安堵して、このまま昔流行ったものにでも話が移ってくれたら、少しは憂さが晴れるかもしれないと思っていた。

 しかし、雑巾モップの柄に顎を乗せた少年は、目元にかかるちゃらついた前髪を首を振って避けると「それがさ」とわざとらしく声を潜めて話を続ける。


「去年、それっぽいのがうちの学校流行ったらしいよ」

「何。なんでそんな意味深な感じで言うの?」

「あんまりおっきな声で言えないんだって」


 ちょっと寄って、と指先で招かれるまま恵麻エマが紬の腕を引いて、少年に近寄る。少年はさらに声を抑え、それでも話したくて仕方がないといった顔つきで言った。


「体育館のステージ下の倉庫に祭壇があって、そこに供えられてる髪の毛と自分の髪の毛を入れ替えて持ってたら、願いが叶うって。去年それやった先輩がいて、停学になったらしいよ」

「え、それさー、もしかして旧体の方?」

「うん」

「髪の毛とかあんの? 誰の? キモくない?」

「誰のかは知らないけど、兄ちゃんが友だちか誰かに聞いたって言ってた」


 伸ばし伸ばしにキモいだの嫌だのと、恵麻エマが連呼する間、紬は話題の建物の様相を思い返していた。

 旧体と呼ばれているその建物は、紬が居る校舎の北側にある旧校舎をさらに越えた所にある、木造の体育館だ。遠目から見ても分かる年季の入りようで、それを悪天候や災害に晒されると、教師陣を含む大人達はせっせと手入れをしてやっている。

 そこまでしてもその建物を誰が使うわけでもなく、周囲には頭に有刺鉄線を絡めたフェンスが張り巡らされており、今ぐらいの時期になると、その網目を埋めるかのように鬱蒼と草木が生い茂り、人の出入りをより一層拒んでいるかのように見えた。

 ツムギの父の母校でもあったこともあり、事前に色々話を聞いていたのだろう。入学前から今日こんにちまで母から「旧体は人気もないし危ないから近寄らないで」と耳にたこができるほど言い聞かされていた。

 言われなくとも誰があんな汚らしいところに、と雑巾モップに視線を落としながら紬は心の中で返してやり、ふと思い直す。

 遠目から見て、ボロではあるが手入れは行きすぎなほど行き届いているように思えた。あの窓ガラスは誰が拭いているのだろう。屋根も昨今の台風の襲来でたやすく吹き飛ばされそうなものを、醜く継ぎ接ぎされた様子もない。草も体育館の周りだけは綺麗に抜かれている。そこまでしてやる理由はなんだろうか。


「あるのって本当に髪の毛? 本物?」


 恵麻エマが眉をひそめて少年に問う声に、ツムギの思考が会話に戻る。


「らしいよ。あと髪の毛の話してたら職員室に呼ばれるって」

「それは校長がハゲだからでしょ」


 笑うのを耐えて怒ったような口調になりながら恵麻エマが反論すると、一気に場の空気が和やかになった。誰ともなく笑いだす中、ツムギも愛想笑いを引っ張り出して笑うと、一区切りついたのを見計らって「あのさ」とまともに口を開く。


「旧体って取り壊さないの? どう見てもおばあちゃんとかそれくらいの世代の建物なのに、なんでずっとあるの?」

「確かに。田中なんか聞いてる?」

「えー、兄ちゃんが聞いた噂くらいなら」

「どんな?」

「勿体ぶんないでよ」


 少年は二人に急かされて周囲を一度ちらりと見回すと、また顔を寄せて囁いた。


「祀ってる物が危ないもので、取り壊そうとすると怪我人が出るって。だからずっとあそこにあるし、時々神主とかお坊さんとか呼んで鎮めてもらってるって」

「なんか急にファンタジー臭くなってない?」

「噂ってそんなもんだろ。でも神主っぽい人はオレ見た事あるよ」

「え?」

「ほんと?」


 食いつかれて田中と呼ばれた少年は僅かにたじろぎ、それでも力強く頷く。


「塾の帰りに裏門の前通ったら、先生に案内されて学校に入っていくの見た。さすがに旧体までは覗けなかったけど、多分行ったんじゃない?」

「田中、加藤、大山! いつまで固まってんだ、掃除しろ」


 廊下から担任の叱責が飛び、三人寄り集まったままその場の床をモップでちまちまと拭き始める。散れ、と再び声が飛ばされてようやく話の場はお開きになったが、去り際に田中が呟いた、


「オレも入ってみようかな」


 という言葉がツムギの耳に嫌に残った。

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