第39話 呪詛の絵馬(中編)

──その神社には、不自然な静けさがあった。


夏の朝。まだ日も高くない時間帯だというのに、鳥の声は聞こえず、風は一切木の葉を揺らさなかった。

まるで、この場所だけが“時の流れ”から切り取られたかのように。


百合は、石段を一歩ずつ上がりながら、眉間にかすかな緊張を走らせていた。


「……“張られてない”のね」


「はい。“神気”も、“守り”も感じられません。“無防備な聖域”です」


神波がうなずき、右手の式具を軽く傾ける。霊的な流れを探る術具の針は――沈黙したままだった。


「にゃ……普通なら“神域”に近づけば、最低限の“張り”はあるにゃ。ここはまるで、“主のいない家”にゃ」


ふくまるが境内に足を踏み入れた瞬間、わずかに空気がひやりとした。


社殿は小ぶりな木造。注連縄は劣化し、鈴は錆びついて動かない。

扉は半開きになっており、埃の匂いが鼻を刺す。


百合は、境内の奥――絵馬掛けに目を向けた。


木枠に吊るされた何十枚もの絵馬。

その一枚一枚には、墨で書かれた文字がずらりと並んでいた。


「……“死ね”」「“いなくなれ”」「“殺してやりたい”」「“呪います”……」


「……“祈り”じゃない。“呪い”が混ざってる」


神波が、絵馬の一枚に指を当て、低く声を漏らす。


「これ……“結び直されている”。元は違う願いだったものに、後から上書きされてる……!」


百合が静かに口を開く。


「“鏡のように”なってるのよ、この神社。“人の心を映す器”だけが残って、神はそこに宿っていない」


ふくまるが、木枠に跳び乗り、耳を伏せる。


「にゃ……聞こえるにゃ。“私を見て”“私を許して”“私を壊して”……。全部、“他者への呪詛”じゃなく、“自分への言葉”にゃ」


神波が絵馬を一つ一つ調べながら、目を細めた。


「……気づいてますか、百合さん。“名指しの呪詛”が一つもない」


百合は頷いた。


「ええ。“誰か”を特定してる言葉がない。“ぼやけた怨念”ばかり。つまりこれは、“相手に向けたつもりの呪いが、自分に跳ね返ってる”典型」


「“主のいない神社”が、“感情の掃き溜め”になってる……」


百合は歩みを止め、社殿の前に立つ。


「……“神さま”は、“願い”を受け取る代わりに、“祓う力”を持っていた。でも、ここにはもうそれがない。“受け取るだけで流せない場所”になってしまった」


ふくまるがぽつりと呟く。


「にゃ、“祈りの水路”が詰まってるにゃ。“流れない想い”が腐って、“言葉の毒”になってるにゃ」


神波が、社殿の下に術具を差し込み、霊的測定を始める。


「地脈、完全に鈍ってます。“祀られていないまま放置された神域”は、徐々に“異物化”していく……。ここはもう、“祈りの器”じゃなく、“呪言の巣”だ」


百合は、ふと絵馬の奥、柱の影に目をやった。


そこには、一枚だけ――他と違う絵馬が吊るされていた。


墨文字ではない。朱で書かれた筆跡で、こう記されていた。


「おねがいです かぞくがみんなしあわせになりますように」


「……それ、かなり古いわね。文字のかすれ方、板の色……十年以上前?」


神波がうなずく。


「社が機能していた頃のものですね。“祈り”がまだ、“願い”だった時代」


百合は、その絵馬の前で静かに手を合わせた。


「……ここは、“想いの残滓”が入り混じってる。“神さまがいなくなった”ことで、“祈る場所が呪う場所に変質した”――」


「“空虚な神域”が、“願いの墓場”になった」


ふくまるが、ぽつりと呟いた。


「にゃ……もうすぐ、“神さまじゃないなにか”が生まれかけてるにゃ。“人の言葉を食べて形になる”やつにゃ」


神波が、背筋を伸ばす。


「ここは、祓うだけでは意味がない。“神を戻す”か、“閉じる”か、選ばなければならない」


百合は、結界符をそっと地面に置いた。


「……私は、“戻したい”。祈りが戻れる場所を、たった一つでも残しておきたい。

それが、祈る人の心を救うから」


ふくまるが小さく、にゃと鳴いた。


「じゃあ、“神さまに帰ってきてもらえる道”を作るにゃ。そのために――“呪いの言葉”を、“祈りに戻す儀式”が必要にゃ」


百合は静かに立ち上がる。


「“言霊の浄化式”と、“依代の再聖化”……。この神社を、“祈りの場”に戻すために、すべての“言葉”を受け止める準備をするわ」

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