承19:悪口だけは人の耳に届くらしい

 午後三時。サクラと石津加は古びたビルのエレベーターホールに立っていた。


 ここまで二人は仕事のこと以外一切会話をしていない。


 あの話の後、帰り支度をした瀬戸は事務所を出て行った。二人に、役所で調べてきた『往年のアイドル』の所在情報を伝え、重たくなった空気を切り替えるように『あとはよろしくお願いします』と残して。


 結局、核心に繋がる情報は得られなかった。知らないことが多くて、彼女は燻ったものが胸に残っているのを感じていた。


 それから間も無く石津加が身支度を——例の刀の鞘も一緒に新しい布袋に入れて——したものだから尋ねると関係者のもとへ行くのだという。


 夕方には絵梨奈が戻ってくる。その前にもう一件というわけらしい。


「…………」


 サクラは気まずい思いを抱いてエレベーターが上階から降りてくるのを待っていた。四〇〇年経ってた話も特段聞かれない。ちらりと石津加を見るも、彼は相変わらずサクラに興味もないのかその顔から感情はうかがえない。


 雨は止んだが黒い雲がずっと空を覆っていた。外に出る分には止んだだけありがたいが、彼女の抱える重苦しい気持ちのようだ。


 エレベーターが一階に到着し扉が開かれると、石津加の後につづいてサクラも乗り込んだ。五階を目指して古いハコがのろのろと持ち上がる。


「…………」



 ——チンッ



 扉の前に立っていたサクラが先に降りると、後から降りてきた石津加が彼女を一瞥いちべつして前へ出た。


「お前、そのぶすくれ顔だけなんとかしろよ。喋るもんも喋らなくなるだろうが」


「は……ブス、なに?」


 とっさに聞き取れなかった時、人の耳は悪口だけ拾うらしい。またとんでもないルッキズム言ってきたなと思ったサクラは驚いて足を止めた。


 しかし落ち着いて言われたことを頭の中で繰り返すとすぐにそうではないことを呑み込んだ。


 どちらにしろ顔のことを言われていたのだが。そんな変な顔を作っていた自覚がなかったサクラは二度驚いた。どうにも気持ちが顔に表れていたらしい。


 彼女は不機嫌を指摘されたことへかすかに苛立ちを覚えたが、石津加の言う事も間違いはない。不服ながらも力を込めて両手で頬を揉みしだいた。


「わかってる」


 そう言って再び歩き出し石津加のあとを追いかけた。


 ◇◆◇


 辿り着いたその場所は、ジャムセッションバーだった。ジャムセッションとは、バンドマンやアーティストがその場で即興の演奏すること。そこは演奏の場所とお酒を提供しているバーだ。


 二人はそこでソファー席に案内されていた。ソファー席とカウンター席のエリアが囲うようにして、中央には楽器がのったステージが鎮座している。


オレンジえんじ色のお姉ちゃんは、アイスティーでいいかしら? お兄さんは、何にするの? ウイスキー? それとも日本酒の方がお好みかしら」


「いや、酒は結構。仕事中なんで」


「あらそう? それじゃあ、コーヒーでいいかしら」


 石津加が一言『それで』と返すと、彼女は背を向けてカウンターの中へと入っていった。現在、店には彼女しかいない。


 ——白浜しらはま美麗みれい。ゴンドウ氏プロデュースの元アイドル。愛称は"ミレーナ"。引退よりあとは後進を育てることに注力し、ある時ヒートショックに伴う脳梗塞で現世を去る。享年五〇歳。


 赤いドレスと、年齢を感じさせない柔らかなブラウンの巻き髪が気品あふれる後ろ姿は同性のサクラですらその美貌にドギマギさせられていた。なのに石津加の表情筋は一つも動かない。


「緊張しないの……?」


「なにに」


 サクラが小声で尋ねるも、石津加は一言返すだけで険しい視線は店内を見渡していた。あんな綺麗な人なのに。


 サクラの年でも知っている。『男の人はキレイな女の人が好き』と。それどころか、こっちサクラがミレーナに度肝を抜かれている。


 石津加は元からそうなのか、人とよく会う職業をしているから慣れているのか、あるいは女の人に興味がないのか。しかし、どれとも定かではなかった。


「ギャンブルしか興味ないのか……」


「なんか言ったか?」


 今度は素早く振り返り、石津加の鋭い視線がそのままサクラに突き刺さった。彼女は口元を押さえて顔を背け知らぬ顔をした。


 やはり、悪口だけは人の耳に届くらしい。

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