Act.17-2

「晴海君。起こしてくれる?」


 蒼子の声は、風に溶けるように柔らかかった。晴海は、そっと彼女の頬に右手を添えた。涙の粒が、彼の指先を濡らした。そのまま拭おうとした瞬間、蒼子の細い指が、そっと彼の手首を握った。その力は、弱くも確かだった。晴海は、彼女の背中に両腕を回した。優しく、けれど決して手放さないように、しっかりと抱きしめる。


 蒼子は、ゆっくりと晴海の肩へ顎を載せた。彼は彼女の体重を感じながら、そっと身体を起こしていった。その間、蒼子の腕は晴海の背中へと回されていた。彼女の温もりが、かすかに震えながら伝わってくる。晴海は、その感触をすべて記憶に刻み込むように、深く抱きしめたが、その身体は、あまりにも細すぎた。


(このまま、淡雪のように消えてしまうのではないか……)


 そんな不安が、胸の奥を静かに揺らした。だからこそ、彼は強く抱きしめた。決して、自分の腕から零れ落ちないように、深く、深く抱きしめた。蒼子の鼓動が、晴海の胸にゆっくりと響いている。晴海は黙ったまま、そのすべてを感じ取ろうとした。記憶するために。この瞬間が、永遠に彼の中で生き続けるように……。ただ静かに、彼女を抱きしめていた。


「ありがとう」


 蒼子は、静かに微笑んだ。


「あなたの航海は、まだまだ始まったばかりよ」


 晴海は、その言葉を胸に刻むように聞いていた。


「その航海日誌を……、時々空にいる私に読み聞かせてね」


 蒼子は、かすかに息を整えながら呟いた。その声は優しく、けれど、どこか寂しげだった。晴海は、ぎゅっと唇を噛んだ。蒼子が、そっと晴海の背中で組んでいた両手を、滑るように離し始めた。その指先の感触が、晴海の肌から静かに離れていく。


 蒼子の身体の有り様を記憶した晴海の胸と両腕が、その余韻を、寄せる波のように繰り返し繰り返し、リピートさせながら心に刻みつけると、ゆっくりと蒼子の身体を自由にした。晴海の両腕を握りしめた蒼子が、彼を見上げた。


「きっちり生きるんだぞ!」


 突然、蒼子が悪戯っぽい声を発した。その目には涙がいっぱい浮かんでいたが、小さなえくぼをつくって笑っていた。


 晴海は、蒼子の顎を自分の肩に載せてきつく抱きしめると、威勢よく立ち上がり、猛然と走り出した。


「うぉぉぉぉ――――!」


 彼は叫んだ。


 その叫びは、美術館の広場中に響いていた。蒼子が軽々と舞う。二人は心の中で、お互いの名前を呼び合っていた。


晴海君愛してる! 晴海君愛してる! 晴海君愛してる!)


蒼子愛してる! 蒼子愛してる! 蒼子愛してる!)


 二人とも、まなじりからたくさんの涙を流しながら、晴海の足が限界になるまで、芝生広場を駆け続けた。



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