Act.15-1

 その日は雨が降っていた。


(蒼子と美術館へは行かれないな)


 教室の窓辺の席で、晴海は静かに鞄に教科書を詰めながら、外の景色に目を向けた。窓ガラスに細かな雨粒がついて、冷たい灰色の空を滲ませる。雲は重く垂れこめ、音もなく沈み込んでいるようだった。


 雨の日は、蒼子の体調も良くない。きっと、今日も点滴をしているのだろう。けれど、彼を待っている。それだけは確信できた。晴海はふと、朝の電話を思い出した。


「おはよう、晴海君」


 蒼子の母からだった。最近では母親からの伝言も増えてきていた。


「蒼子がね、今日は雨だから美術館へは行かれないけど、家に来て欲しいって言ってるの。晴海君、コーヒーゼリーは好き? 蒼子のために、のど越しがいいお菓子を作ろうと思って……」


「おはようございます。はい! 学校が終わったらすぐに行きます。コーヒーゼリーですか? 僕、コーヒーは飲んだことないけど……」


 晴海はちょっと言葉を濁した。


「コーヒーはね~。ちょっと大人の味かしら? でも、う――――んと、甘く作るのよ。蒼子もまだ16才だもの」


 母親の笑い声が嬉しかった。


「んじゃ、楽しみに行きます! 3人でお茶ができますね」


「あら? 私はお邪魔虫じゃないの?」


 母親にからかわれた。


「え! は? そ……そんなことは! ありません! お母さんと一緒に過ごすって、すっごく大事です!」


 晴海がとってもまじめな男の子で、少しぽよ――ん気味なことを、彼女ももう十分わかっていたのだった。晴海を入れて蒼子と過ごす時間は、母親にとってもうれしい時間だった。それは晴海も蒼子も同じだった。近しい人たちと過ごす時間はもう限られている。だから、出来る限り、蒼子は家族や晴海と一緒に過ごしていた。


(蒼子とお母さんが待ってる……)


 席を離れようとした、その瞬間だった。


「晴海君」


 冷たく硬質な声が、彼の背中に突き刺さった。振り向くと、そこに大木沙也が立っていた。隣には、ヨシと真奈美もいた。けれど、彼らの表情はどこかぎこちなかった。ヨシは気まずそうに目を逸らし、真奈美も少し困ったような顔をしている。けれど、沙也だけは違った。彼女の眼は、鋭く晴海を捉えていた。晴海は、黙ったまま3人をやや見下ろしていた。


「晴海君。話があるの。ちょっといい?」


 自分の名前を呼ばれた意味が、晴海にはわからなかったが、沙也の声は、冷たい氷のようだった。それに、言葉そのものよりも、圧のある視線が、晴海を捉えていた。4人を取り巻く空気が、わずかに重くなった。


 ヨシも真奈美も戸惑いを隠せない表情をしていた。けれど、沙也だけは違った。彼女の眼はまっすぐに晴海を見据え、そこにはためらいなど一切なかった。でも晴海は、沙也がどんな目を向けても、彼女には全く興味がなかったから、面倒くささから湧き出る、内心の小さなため息を押し殺して、彼女を見下ろした。


「え……と……。僕、急いでるから、明日の朝とかじゃダメ? 放課後は、早く帰りたいんだ」


 言葉を曖昧に濁しながら、鞄の口を締めて立ち去ろうとしたが、その動作を遮るように、沙也は口を開いた。


「星野蒼子って人に会いに行くの?」


 沙也の声が、鋭く下から晴海の喉に突き刺さった。晴海は、不意を突かれて動きを止めた。


「なぜ、それを?」


 ゆっくり鞄から視線を上げると、沙也の小さな体が、彼の胸元に収まるほどの位置で立っていた。けれど、その瞳は、彼女との身長差を感じさせないほどの強さを持っていた。


「あなたとその星野さんって人が、日曜日に美術館にいるところを友達が見たの。彼女の妹が、星野さんと同級生なのよ」


 沙也は淡々と告げた。


「彼女のこと、いろいろ教えてもらったわ」


 その言葉には、鋭い棘とどこか勝ち誇ったような響きすら感じられた。それが、晴海の中にある不快感を、一気に膨らませた。沙也が勝手に蒼子のことを調べ上げていた。それがどんな意図であれ、晴海には、自分と蒼子の世界へ土足で踏み込まれたような気持ちになった。


 彼はもともと穏やかな性格だ。強い感情をぶつけることは滅多にない。けれど、蒼子のこととなると、話は違った。晴海は、彼女を絶対に守ると決めている。


「ふ―――ん。そう」


 晴海は、沙也を見ることもせず、鞄の中の教科書へと再び目線を落として、低く呟いた。


「何か、楽しい話でも出たの?」


 いばらが巻き付いている声ではない。けれど、その冷たさは、一切の興味を持っていないことを雄弁に物語っていた。


「晴海君、その子をお姫様抱っこしてたって言ってた。それに、自分の両足の中に座らせて、背後から抱きしめたり、クッキーを彼女の口に入れたりして……その甘々な姿、見てる方が恥ずかしかったって言ってた」


 沙也は言葉を吐き捨てるように言った。晴海は俯いたままだったが、次の瞬間、ゆっくりと顔を上げ、ちらっと沙也を睨んだ。


「見るのが恥ずかしいって思うんだったら、見なきゃいいじゃん」


 声は低く、しかし鋭かった。


「僕らは別に恥ずかしいことなんかしてないんだから、僕らがしていることに、他人がいちいち自分の感情を押し付けるな。そんなことして、そいつらに何かメリットあんの?」


 その瞬間、沙也はわずかに身を引いた。だが、すぐに表情を引き締め、言葉を強めるように口を開いた。


「それは……でも、普通じゃないわ! そんなこと、普通の恋人同士でも滅多にしない! 高校生ならましてよ! それなのに、公衆の面前で、そんな風に抱き合ってるなんて……」


「普通って何?」


 晴海の声が、冷たく静かに沙也の言葉を切った。


「誰が決めたの? 僕らは僕らの形で生きてる。何が普通かなんて、君には測れないでしょ?」


 沙也はぐっと言葉を詰まらせた。周囲の空気がじわじわと緊張を孕み始める。ヨシも真奈美も、戸惑いながら晴海の反応を見つめていた。


 晴海は何を言われても、ただにっと笑って目を伏せるだけで、反論なんかしたことがない。穏やかで、ちょっとぽよ――ん気味な、衝突を避ける性格だった。それは、クラスメイトなら誰でも知っている事実だった。だからこそ、彼が今、沙也を睨みつけていることにヨシも真奈美も、息を飲んで見つめていたのだった。


 あの晴海が、静かに腹を立てている。それがかえって怖いほどだった。沙也は、ほんの一瞬たじろいだが、その動揺を振り払うように、再度声を張り上げた。

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