Act.10-1

 まもなくして、蒼子はベッドから起き上がるのが難しくなっていた。八重の鎖で縛られているような鈍痛が、蒼子を襲っていた。食事の量も減り始め、アイスクリームや、ゼリータイプの栄養補給食・病人用の喉ごしが良いレトルト食品がメインになってきていた。緩和ケアチームがやってくる間隔も狭まっている。それでも蒼子は美術館へ行きたかった。


「あの海と空が見たい。晴海君に会いたい」


 蒼子は重い身体を起こした。


「蒼子! 何をしてるの! だるいんでしょう? 寝てなくちゃだめよ」


 母親はベッドから降りようとしている蒼子を止めた。


「美術館へ行くの。晴海君が待ってる」


 蒼子は呼吸を荒くしながらも呟いた。


「だめよ!」


「離して! 私は約束したの、また会うって……。ここから歩いて、たった10分の距離よ? そのくらい、まだ歩けるわ!」


 蒼子は母親の手をふりほどくと、杖に全身を預けながらも、ふらふらと部屋を出ていった。


 美術館までの道のりが、こんなに遠く感じたことはなかった。坂道を登るのがきつい。痺れた足は、思った以上に上がらなくて、階段を登れずにストンと降りてしまう。杖を持つ右手に力を込め、ぐっと身体を押し上げて階段を登る。


 1歩1歩。その度にアキレス腱から上のふくらはぎまでがきしむように痛い。激痛に顔が歪むが、蒼子は諦めなかった。呼吸も荒くなってくるし、上半身の力もどんどん抜けていく。息苦しくなり吐きそうだった。時々止まって、携帯酸素を吸う。そして再び坂を登る。確実に病魔は蒼子の残された時間の短さを、彼女自身に突きつけていた。それでも蒼子は、身体を引きずるようにして美術館へと向かった。


 芝生広場に晴海の姿があった。蒼子は「こんな偶然があるのだろうか?」と、信じられない眼差しで、ひょろっと背が高い彼を見つめながら、今度はグラっとバランスを崩して転げ落ちないように、慎重に杖を使いながら階段を降りて行った。


「晴海君!」


 蒼子は全身の力を振り絞って叫んだ。蒼子の声が風に乗って晴海に届いたかのように、晴海は何気なく振り返った。


「晴海君……」


 蒼子は、自分の姿を見つけた晴海に、安心したような微笑みを浮かべて呟いた。


「蒼子?」


 晴海はきびすを返すと、まっしぐらに蒼子に向かって走ってきた。


「蒼子!」


 晴海が近付くと、蒼子は晴海の腕の中に倒れ込むように姿勢を崩した。晴海は慌てて蒼子の身体を支えると顔を覗き込んだ。


「大丈夫? 苦しいの?」


 晴海は蒼子を抱きしめるように、腰に左手を回し右手を強く握りしめた。蒼子はぜえぜえと苦しそうに息をしていた。しかし、立っていられず重い雪がなだれ落ちるように、晴海の足元にうずくまった。


「蒼子!」


 晴海は慌てて彼女の横に片膝をついた。


「ちょ……ちょっとだけ……。すぐに……落ち着く……から……」


 そう言ったまま、芝の上でくの字になって横たわり、荒い息を吐き続けていた。蒼子が吐きだす息の音が、どれほど苦しいかを語っていた。晴海は蒼子が肩掛けにしていた鞄から携帯酸素を素早く取り出すと、蒼子の口元に当てた。蒼子はそれを求める金魚のように吸い付くと、何度も何度も酸素を吸っていた。晴海は、その蒼子の背中を、たださすることしかできなかった。数分ほど経ったころ、やっと蒼子の呼吸も落ち着いてきた。


「ごめんね。心配かけちゃった。でも、どうしても来たかったの。晴海君に会いたかったの」


 倒れたまま、自分に差し出されている晴海の腕を掴んだ。彼を見上げた大きな目から、涙が一粒こぼれ落ちた。

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