Act.1-3
「気にしないで。私が選んだの。こうして海風に吹かれて生きてたかったのよ。真っ白い病室で窓枠に区切られた空を見上げて、抗がん剤の副作用にのたうち回るなんて、もう絶対に嫌! 寛解してから、自分なりにネットとかで、このがんのことを調べたのよ。すっごく怖かったけど、現実を見つめないといけないって思ったの。だから、5年生存率が低いことはわかってたし、再発したら、もう、無駄に命を繋げるために、苦しい治療をするのはやめようと決めてたの。好きなものを食べて、好きなことをして、好きな人たちと楽しく暮らそうって思ったの。私って、おませでしょう?」
蒼子は悪戯っぽい眼で、呆然と座ったままの晴海を、少し屈みながら見つめて笑った。
「身体だけじゃなく、魂もボロボロにしてまで、延命治療を受ける気はなかった。延ばしたところで数か月よ。人は遅かれ早かれどうせ死ぬんだもん。私はそれが、たまたま16年だったって思うことにしたの……。それに、命の期限を知ってるほうが、その日まで濃い生き方ができるとも思うのよ。期限を知らないまま、今夜交通事故で死ぬ人が、必ずいるはずだわ。突然、何かの拍子で死んじゃったって人の方が、死期を知っているものより断然多いのよ? その人たちよりは、私は恵まれてると思った……。ちゃんと死ぬ準備ができるんだもん」
蒼子は屈託のない笑顔で、大きく伸びをしながら空を見つめていた。晴海は何も答えられないまま立ち上がり、蒼子の横に弱々しく
「突然死んじゃった人の魂がね、『やばい! ベッドの下にエロ本隠してたんだ。処分しないまま死んじまったから、家族にばれる!』なんて慌てる姿を想像したら、笑うしかないと思わない? 身辺整理をしておかなかったことを後悔しても、後の祭りなのよ」
蒼子は本当に楽しそうに笑いながら、晴海の回りを、杖をつきながら、くるくると歩き回った。
「君は大丈夫かなぁ~?」
蒼子は晴海の正面に立つと、胸を人差し指でつんつん突いて、彼の顔を覗き込んだ。ぼっと頬が火照った。
「おやっ! 思い当たることがあるのかなぁ~?」
「な……ないよ! あるわけないだろ!」
晴海は激しく抗議した。蒼子はそのままゆっくり微笑んだだけだった。
「そういうわけだから、休学してから、もう3か月が経ったわ。高校1年の卒業式が終わって、2年生の入学式も済んだところ。最期の儀式だったから、ちゃんと出席して記念写真にも納まったのよ。そして、ここの桜もすっごくきれいでしょう? 来年って、私にはないから、これも見納め。きちんと記憶しておくの。私はこんなにも素敵な世界に生きているって、毎日をきちんと記憶し、『見せてくれてありがとう』って感謝してるのよ」
蒼子にとっては、毎日が「最期」の時間なのだ。来年はないと言い切った彼女の強さに、晴海はどう答えたらいいのかわからなかった。
「また来る?」
蒼子は大きな目で、晴海を見つめた。
「あ……ああ。天気の良い日はいつも来てるから……。そのために『友の会』に入ってるんだ」
晴海は、努めて明るい声で答えると、ちょっと自慢気に会員カードを蒼子に見せた。それを見た彼女の顔が、ぱっと明るくなった。俯いてポシェットから同じカードを取り出した。
「じゃ―――ん! 私もよ。父が買ってくれたの。いつでもここへ来られるようにって……」
蒼子のポシェットに、真っ赤な札がついていた。
「その白いハートマークと十字が書かれた札は、なに?」
どう見ても、きっとものすごく大事なものだと、晴海は思った。
「これ? 『ヘルプマーク』って言うのよ。見た目ではわからないけれど、何かしらの援助や配慮を必要としている人が持つものなの。耳が聞こえない人とか、妊娠初期でつわりがひどい妊婦さんとか。混雑した電車の中で吐き気で倒れそうになっても、口に出さないとわからないから、誰も席を譲ってくれないでしょう? でも、このマークを見たら、誰かが『ああ、何かしら辛いものを抱えている人だ』と気がついて、席を譲ってくれるかもしれないわ。配慮して欲しい側からも、きちんと配慮をお願いする側に伝えることも必要だと、私は思うの。テレパスじゃないんだから、心の中を覗いたり、推し測るなんてできっこないわ」
蒼子は札を手にすると裏返した。白い紙に何か書かれて貼られていた。
「私は末期がん患者です。倒れた場合、救急車で『国立A病院』に搬送してください」
その後には、自宅の住所と電話番号、蒼子の名前が書かれていた。
「いつもここに来てるなら、また会えるわね。そろそろ帰らないと母が心配しちゃう。またね。晴海くん」
蒼子がにっこりと微笑んできびすを返しそうとしたのを、晴海は止めるために、反射的に声を発していた。
「あの!」
「ん?」
蒼子は再び晴海を見上げた。
「もしよかったら……」
そこまで言ったとたん、羞恥で顔が真っ赤になった。
「え……と、あの……」
蒼子は肩で小さく笑うと、カードをしまい、代わりにスマホを取り出した。
「連絡先。交換しましょうよ」
「いいの?」
晴海も慌てて、ジーンズの尻ポケットに差し込んでおいたスマホを取り出した。
蒼子がLINEのQRコードを差し出したので、晴海はそれを読み取ろうと、スマホ同士をキスさせるように合わせた。と、いやらしい想像をしたのは、晴海だけかもしれないが……。
「キスみたいね」
(どっき―――ん!)
自分が思っていたことを、蒼子がさらっと言ったので、なんだか心を読まれたような気がした。
「またね。晴海君」
呟くと、蒼子は赤い色をした杖をつきながら、たっぷりの布でできているスカートをひらひらさせ、出口へ続く階段を登って行って姿を消した。
「またね?」
晴海の心臓が、ぎゅっと
(彼女の『またね』という言葉は、いつまで聞くことができるのだろう?)
気がつくと、晴海の頬を涙が伝っていた。
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