Act.1-2

「私ね、13歳の時に『成人型肝がん』っていう、まぁ簡単に言うと小児がんになったの。それって、非常にまれなケースで、13歳で罹ることはほとんどない悪性がんなのよ。すっごい確率で、ハズレくじ、引いちゃったの」


 蒼子はちょっと首を傾げ、諦めと同義語の笑顔で晴海を見つめた。


 彼は、幼い子が白血病や脳腫瘍とかに罹ることは知識として持っていたが、それ自体あまり例がなくて、「がん」って大人が罹るものだと思っていた。


 しかし、目の前にいる蒼子から「がん」という単語が発せられるとは思ってもいなかった。晴海は「ごくり」とつばを飲み込んだ。彼の驚きを察した蒼子は、ちょっと困ったように眉を寄せると、右手で髪の毛をかき上げた。


「初対面なのに、驚かせちゃった。ごめんなさいね。でも、晴海君だからかなぁ~。告白しようって思っちゃうのも……。ちょっと、座らない?」


 蒼子はお尻に手を回してフレアスカートを整えると、晴海の返事を聞かずに芝生に座った。その流れるような動作に、取り立てて足のどこかを怪我しているようには見えなかった。


 蒼子が有無を言わせず座ってしまったので、晴海もぎくしゃくとした動作で、彼女の横に座った。


「私ね。13歳の時にその……、子どもは稀にしか発症しない『成人型肝がん』になったの。子どもってね、がんの発見率が低いのよ。幼い子って、風邪を引いたって、自覚症状とかわかんないでしょう? それと同じ。それでね、がんだとわかったときには、『高リスク群』という最悪の状態だったの」


 蒼子は髪の毛をしきりにいじっていた。


「晴海君も知識で知っていると思うけど、当然摘出手術がベストなのよ。でも、私の場合は腫瘍が大きすぎたから、まず抗がん剤を投与して、がんを小さくしてから摘出することになったの」


「抗がん剤って、確かがん細胞だけじゃなくて、正常な細胞も殺すって聞いたことがある。それに吐き気とか、脱毛とか……。副作用もひどいんでしょう?」


 世の中に出回っている程度の情報なら、晴海も何となく持っていた。そんな辛い治療を、たった13歳の子どもがしたなんて、きっとものすごく辛かっただろうと思った。


「うん。13歳だと、ある程度の判断力があるから、ワンクールやったところで、私、『もう嫌!』って泣き叫んだわ]


 蒼子はくすりと笑って続けた。


「抗がん剤治療は副作用との戦いだった。投与後2日目には、食べ物を見ただけで吐いちゃったし、3日目くらいから、下半身が引っこ抜かれるんじゃないかってほどの激痛が襲ってきて、ベッドの上で泣きながら転げまわったわ。私、『高リスク群』だったから、たくさんの検査や治療薬の投与、高カロリーの輸液投与が必要だったの。その度に、針を刺す苦痛から逃れるために、『皮下埋め込み型中心静脈アクセスポート』といわれる、10円玉くらいの大きさの本体と薬剤を注入するカテーテルで構成されている、俗に『CVポート』と呼ばれるものを、左胸の皮膚の下に埋め込んでるのよ」


 蒼子はロウネックのワンピースのボタンを外し、鎖骨の下が見えるように洋服を開いた。初めて見る女性の白くて薄い肌に、晴海はどきどきしたが、そのCVポートが埋まっている個所を確認した瞬間、あまりの痛々しい膨らみに、思わず目を逸らした。


「抗がん剤で腫瘍が小さくなったところで、部分摘出手術をしたの」


 ボタンを留め直しながら、蒼子は空を見上げて大きなため息をついた。


「辛かったね。でも、そのお陰で完治したんでしょう?」


 晴海は、今の蒼子があるのは、辛い時間を頑張って耐えたからだと思った。しかし、蒼子は横を向いて晴海を見つめた。


「ううん。『完治』って言わないの。『寛解かんかい』って言ってね、一時的に腫瘍が消滅したように見えてるだけで、『再発』のリスクはあるのよ。特に『成人型肝がん』は、生体肝移植しか完治の道はないんだけど、私はがんの進行度が移植適応外で、5年生存率はたった15.2%なの。抗がん剤の副作用で、両足首から下が麻痺してて感覚がないから、ちょっとした段差でもバランスを崩して、よろけちゃうのよ。だから、転倒防止のために、杖を使ってるんだけど、この痺れもね、数年は残るって言われてるの。痺れがなくなって完治するか、痺れたまま、またがんになるかだったんだけど、私、やっぱり再発しちゃったの」


 蒼子は自分のことを話しているというのに、とても冷静な声だと晴海は思った。それに「寛解」「再発」「生存率」なんて、彼の生活圏内では、今まで一度も聞いたことがなかった単語だったので、ものすごく怖いことを聞かされているという気持ちになった。


「再発」という言葉に「死」という文字が頭の中に浮かんだし、5年生存率が、たったの15.2%って、5年以上生きられるのは、10人に1.5人ってことだ。



 8人は5年以内に死ぬんだ。まさか、蒼子がその8人の中に入るのか? そう思ったら、言葉に詰まってうつむいてしまった。


 それに、たった今見せてもらったCVポートが、蒼子の皮下に埋め込まれているということは、蒼子が何かしらのがん治療をしているという証拠ではないか。


 晴海の頭の中は、完全に理解の針が振り切ってしまった。そんな晴海の顔を、彼の肩くらいしか背丈がない蒼子が、ドキッとするほど近くで覗き込んだ。


「私は大丈夫よ? ちゃんと自分で決めたから……」


 蒼子の澄んだ眼差しを、晴海は勇気を出して見つめ直した。


「大丈夫って、治るってこと?」


 それはないだろうと思いながらも、晴海はわずか1%の確率にすがるように、小さな声で問うた。


「ううん。命を延ばすための積極的な治療をしないことに決めたの。残りの時間は、自分の好きなように生きるの。だから、今は緩和ケアを受けてるのよ」


「えっ?」


 晴海はこんな生死に関わる深刻な話を聞くのが怖くなり、両手で耳を塞ぎそうになったが、当事者の蒼子の前でそんなことはできない。


 彼は知識として取り込んでいた情報を、脳内から引き出した。緩和ケアとは、末期がんの人が延命治療を受けず、身体的・精神的な苦痛を和らげるための措置のことだ。


(つまり……。蒼子は、やはり死ぬのか? )


 晴海は背筋がぞわりとした。それを察したのか、蒼子はゆっくりと笑うと立ち上がり、晴海から離れて、再びS灘を見つめて風に吹かれながら、独り言のように話し始めた。

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