刺繍聖女の平穏なる日々〜異世界でいきなり結婚することになりましたが、私は趣味に没頭いたします〜
楠千晃
第1話 異世界転移は突然に
空は晴れ渡り、地には花々が咲き乱れ──私は純白のウェディングドレスを身に纏っていた。
最高級のシルクとレースをふんだんに使ったドレスは、まるで真珠のような光沢を放っている。
いつも引っ詰めて括っただけの私の長い黒髪は、複雑に編み込まれてベールと花の髪飾りでこれでもかと盛られていた。
ここに来た時、私はひどい顔をしていたはずだ。目の下には青黒いクマ、寝不足で荒れた肌。今は体の全てが磨きに磨かれ、頭のてっぺんから爪先に至るまで光り輝いている。
我ながら完璧で自分史上一番美しい花嫁姿だ。
私たちの式を見ようと集まった大勢のオーディエンス。
彼らの表情は幸せに満ちていて、この結婚を心から祝福してくれていることがわかる。
しかしそれはすべて初めて見る人々で、私は名前さえも知らない。
結婚式というのは一大イベントのはずなのに私にとっては特別な感慨もない。
愛する人と結ばれる、とかいうのだったらまた違うんだろうなぁ。
私は今日、異世界で知らない男と結婚する。
私、柴崎悠里は綿のように疲れていた。
ブラックな職場で毎日体力と精神をすり減らしているせいだ。
今回なんて、案件が佳境に入ったというときにクライアントが急に無茶を言い出し、今日まで実に九十連勤するハメとなっていた。
先ほどその仕事を無事に納品し終えることができたのだが、定時に帰るのはいつ以来だろうか。
「かーえーれーるー……」
疲労感で身体はひどく重かったが、まともな時間に帰ることができるという喜びでちょっぴりテンションが高かった。
上司の怒鳴り声やギスギスした職場の雰囲気、片付けても片付けても終わらない仕事。
自炊する時間なんてないので毎食コンビニ飯を掻き込み、夜はただでさえ少ない睡眠時間なのにストレスで寝付けなかった。
明日からもまた通常業務が始まるのは変わらないけど、今はこの解放感に浸っていたい。
(いや、いっそ仕事辞めたいなぁ……辞められたら最高だなぁ……)
久々に寄り道をしようと思ったのはこのせいかもしれない。
(もし仕事を辞められたならしばらくは刺繍にどっぷり浸かりたいなぁ。とりあえず花、花を刺したい。ツヤツヤな刺繍糸でグラデーションきらきらの花びらを刺繍したい)
それは取り止めのない妄想だったのだけれど、私は新しい刺繍糸が見たくてたまらなくなった。
もちろん、自分の部屋にも刺繍用品は一式揃っているが、手芸店のというのはいつ行ってもウキウキするものなのだ。
この時間なら、まだあの店はギリギリ開いている。町の小さな手芸店。
そこで色とりどりの刺繍糸がずらりと整列しているのを見るのが私の楽しみだった。
刺繍は趣味というよりもはや生き甲斐で、時間があれば何かに針を刺している。
手芸店には通い慣れたもので、目をつぶっていても辿り着くことができる。だからそのとき、私は歩きながら寝てしまっていたのだと思う。
冷たい夜空の下を歩いていたはずなのに、気付けばやけに空気が暖かい。
不思議に思ってぼんやりと目を開ける。
すると私は、いつの間にかきらきらと輝く空間にいた。
それはコンビニの照明とか車のライトとかではなくて、もっと神々しくて繊細な輝き。
光の粒子が虹をまとい、まるで踊っているかのように空間を漂っている。
あまりに現実離れした光景に、眠気も疲れも一気に消し飛ぶ。私は焦って周囲を見渡した。
おかしい。
会社帰りなのにこんなにも辺りが明るいなんて。
いや、明るいというだけではない。
商店街を歩いていたというのに、周囲にお店がない。
お店どころか、建物の一つも見当たらない。
電柱も自販機も、足元にあるはずのアスファルトの道路さえも目には見えず、ただ光だけが視界を支配していた。
美しく神々しくもあったが、これはこの世の光景ではないような気もした。
あまりの疲労で脳がホワイトアウトしたのだろうか。
不安になってあたりに視線を這わせると、目の前に跪いて顔を伏せている男性の姿があった。
私は思わずそこにしゃがみ込み、彼の手を取って尋ねる。
「あのっ、すみません!ここはどこでしょう?!」
男性はぎょっとして私を見つめ返した。
ふっ、と辺りの空気が変わった。
あれだけ辺りが眩ゆかったのに光度が落ち着いている。
白く統一された天井に壁、柱……どうやら私は室内にいることが分かった。
後ろを見れば巨大な女神像が恭しく飾られている。
それは水晶のような透明な鉱石でできており、窓からの陽光を受けて七色に輝いていた。
もしかして美術館にでも迷い込んだのかな?
でもそんな場所、近所にあった?
困惑していると、男は顔を上げて私の顔をじっと見た。
彼は銀色の髪と藍色の瞳、そして真っ黒なハーフマントを身に纏っていて、私は自分の目を疑う。
こんなイケメン、近所にいた?
いや、なんだか服装が現代風ではないけれど、コスプレのイベントでもあった?
もしかしてここはベルサイユ?
だって彼の格好ったら、まるで昔のヨーロッパの王子様なんだもん。
そしてなによりも目を引くのは、やっぱり。
「その襟袖の刺繍、素晴らしいですね!」
「……あ、ありがとうございます?」
イケメンが困惑がちに答える。
だけど今の私は寝不足で彼に気遣うことなどできなかった。
「このデザイン、フリージアですよね?可愛らしいお花だけど、この刺繍は凛とした感じ。花柄なのに甘すぎなくて、貴方の雰囲気にぴったり。色遣いのセンスが光ってますね」
「……そこまで褒めていただけると、仕立てた甲斐があるものです」
なんと!オーダーメイド?!
しかもよくよく見てみると、機械刺繍にはない柔らかみもある気がする。
手刺繍でここまでの上着を作り上げるなんて、素晴らしい職人さんもいるものだわ。
どれどれ、カフスの周りはどうなってるのかしら。
「貴女は」
じっと刺繍を鑑賞していると、イケメンが口を開いた。
ホルンを思わせる柔らかで爽やかな声。
少し戸惑いを含んではいるが、優しい問いかけだった。
そうしてやっと、私は自分の置かれた状況を思い出す。
「あ、えっと、ごめんなさい。私、知らないうちにここに迷い込んだみたいで」
「迷い込んだ……?」
「ここはどこなのでしょう」
男性はポカンと私の顔を見ていたが、私が彼の上着の袖を握っていることに気がついたようで、そろりと視線をそこに落とした。
そしてわずかに目を見開く。
「あ、ごめんなさい。私ったら、つい」
「……貴女は、もしや異世界の聖女なのか?」
「え?」
せいじょ、という言葉が頭の中でうまく漢字変換できない。
せいじょう、正常、清浄。成城石井。
どれだろう。
どういう意味で問われているのだろう。
少しでも状況を把握しようとあたりを見回すと、ここは美術館などではなく、どうやら女神像を祀る祭壇だということが分かった。
女神像を前に跪き、祈りを捧げていたイケメン。
そして女神像と彼の間を遮るように現れた私。
この女神像がなんの神様を模したものかは知らないが、私はとても失礼なことをしているようだった。
慌ててその場を離れようと腰を浮かすと、彼は優しく私の手を握り返した。
「まさか異世界より聖女が私にご降臨あそばすとは」
え?なになになに?
私の困惑をよそに、周囲に人が集まってくる。
彼らは修道服のようなものを着ていたり、マントをたなびかせ剣を帯びていたりしていた。
やっぱりこれ、コスプレイベントだな?
そう納得しかけていた私に、イケメンは優しく語りかける。
「我が聖女。私の元に降り立ってくださった限りは、私が貴女をこの命をかけてお守りいたしましょう」
九十連勤の仕事帰り──手芸店に立ち寄るつもりが、どうやら私は異世界へと迷い込んだらしかった。
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