第26話「麗花からの挑戦状」
晴海ベイタワー――それは、晴海市の沿岸に建つ四十階建ての複合施設であり、行政関係のシンポジウムや企業主催のイベントが頻繁に開かれることで知られていた。その最上階に位置するスカイラウンジ「オーロラ・ホライズン」は、予約制で夜景を眺めながらの交流会やレセプションに使われるラグジュアリーな空間である。
その夜、杏は単身そこに呼び出されていた。
「……やっぱり来てくれたのね」
六條麗花が言った。光の屈折を計算し尽くしたようなガラス張りのラウンジの中、麗花は一人、背筋をまっすぐに伸ばしてワイングラスを揺らしていた。長く波打つ髪が、空調にそっと撫でられ、黒曜石のように艶めく。
杏は制服姿のまま、濡れたウインドブレーカーを脱ぎ、近くのソファに腰掛けた。周囲に他の客の姿はない。事前に貸し切られていたのだろう。
「これって……わざと人を遠ざけたんですか? 記者も誰もいないみたいだけど」
「話すには静かすぎるくらいが、ちょうどいいのよ。特に、真実というやつはね」
麗花はグラスをテーブルに置き、立ち上がった。そして、スカートの裾を整えながら、杏の前へと歩み寄る。その瞳は、どこまでも澄んでいた。ただ、冷たかった。
「あなた、私のことを“敵”だと思ってるんでしょ。悪い大人。欲に溺れた科学者。人の命より実験を優先する、非道な存在」
「……思ってます」
杏は視線をそらさず、むしろ一歩、感情をにじませて言い返した。
「だって、そうじゃないですか。私たちが調べたこと全部、本当だった。ゼータ炉の危険性。実験の前倒し。放射線の拡散。あなたたちは、知ってて進めてるんです」
「ええ。知ってるわ。そして進めるわよ。だから、あなたに話し合いの場を与えてるの」
麗花は言葉の端を切るたびに、まるで外科手術のような冷徹な正確さを見せる。
「この街は小さすぎる。けれど、この街の地下構造、海洋流通、そして法制度は、ゼータ炉の実験に理想的な条件をそろえてる。大規模商業都市では不可能なデータ取得が、ここならできるのよ。犠牲が最小限で済むから」
杏のこめかみに、じわじわと血がのぼる。
「“犠牲が最小限”って……それ、私たちの街が、実験場でいいってことですよね? それが科学なんですか?」
「違うわ」
麗花は初めて、声に硬さを乗せた。
「科学は道具よ。進歩も破滅も、その使い方で決まる。そして今、この国で“次世代炉”の実証に成功すれば、世界のエネルギー覇権を左右できる。あなたが何と言おうと、それは事実。感情では動かないのが、私たち研究者の役割なの」
杏は立ち上がった。
「じゃあ……私はその感情の役になる。怖いって思う。間違ってるって叫ぶ。やめてほしいって、ちゃんと言う。だって、私たちは生きてる。ここに住んでる。まだ子どもだけど、未来はある!」
それを聞いた麗花の唇が、わずかにゆがむ。皮肉にも、楽しげな笑みだった。
「……あのときの私と同じことを言うのね」
「え?」
「十八年前、私も同じように、先輩研究者に言ったの。“人の命を犠牲にしてまで進める研究なんて、間違ってる”って。だけど……私は“正義”に敗れたの。データも予算も、全部失ってね。それで分かったの。戦い方を選ばない者だけが、未来を動かせるって」
杏は黙ってその言葉を受け止めた。その沈黙が、深く、冷たくラウンジに広がっていく。
杏は少しだけ息を吸い込んだ。目の前の麗花の姿に、自分が知らなかった“過去”の一端を見てしまったような感覚に、言葉が遅れた。
――麗花さんも、昔は誰かを守ろうとしてたんだ。
しかし、そこから彼女が選んだ道は、杏のものとは正反対だった。
「……でも、だからって、自分がされたことを他の人にもするんですか?」
杏はそっと言った。トーンは抑えめだったが、その芯は鋼鉄のようにまっすぐだった。
「私は、同じような想いを誰かにさせたくない。自分が苦しかったなら、それを繰り返しちゃだめなんです。私たちは、大人の犠牲を受け入れて生きるために子どもやってるんじゃない」
その言葉に、麗花の表情が一瞬だけ硬直した。まるで心の奥底に突き刺さる針のような台詞だったのだろう。しかし次の瞬間には、再びいつもの仮面が戻っていた。
「あなたのような人間が、これからも増えていくのね。理想を語り、理論を飛び越えて、世界を止めようとする……」
彼女はポケットから、銀色のデータカードを取り出すと、ラウンジのガラステーブルにそっと置いた。
「これが、ゼータ炉の“最終起動シークエンス”の情報。実験の全手順。設備の耐性。出力レベル。バックドアコード……そして、制御盤を緊急停止させる唯一の“物理手段”も」
杏はそれを見つめ、すぐに手を伸ばしかけて止めた。
「……なんで、こんなもの渡すんですか。罠ですか?」
「挑戦状よ」
麗花は、真っすぐに言い放った。
「あなたが本気で、私たちの技術に立ち向かう覚悟があるなら――この情報を使って止めてみなさい。だけどね、杏。技術というのは、止めるためにあるんじゃない。乗り越えるためにあるの。あなたは、それができる?」
杏の目が、ふと細められた。まるで、それを試すような視線を受けていると理解したからだ。
「やってみせますよ。何度だって。どれだけ細かくて、難解で、恐ろしい手順でも。仲間と力を合わせれば――」
「でも、時間はないわ。クリスマスの夜、午前一時ちょうど。ゼータ炉は“臨界”を迎える。止められなければ、最初の放出が始まる。何が起きても、私は知らない」
麗花はそう言って、カクテルグラスの残りを飲み干し、立ち上がった。ヒールの音が、冷たい大理石の床に高く鳴った。
「その日が、晴海市の“記念日”になるか、終わりの日になるか……決めるのは、あなたたちよ」
そして、背を向ける。ドアへと向かうその背中に、杏は声をかけずにいた。
けれど――その背が完全に扉の向こうへと消える寸前、杏は小さく、しかしはっきりとつぶやいた。
「記念日にします。絶対に」
部屋に残された静寂は、彼女のその決意だけを抱いて、静かに揺れていた。
ラウンジを出た杏は、無意識にベイタワーの非常階段を駆け下りていた。
エレベーターなんて悠長に乗っていられなかった。胸の奥で、何かがぎゅっと詰まるような焦りと衝動がせめぎ合っていた。
――あの人、全部分かった上で私に任せた。
麗花はゼータ炉の暴走リスクを知っていた。それでも止めず、あえて杏に“止める自由”を渡した。
「それって、責任放棄じゃない……でも……!」
杏はポケットに入れたデータカードを握りしめたまま、冬の夜風に晒される駅前広場まで走った。
その頃、〈ブライトシーカーズ〉のメンバーも、それぞれの場所で不穏な空気を感じ取っていた。
光平は自宅ガレージでノートパソコンの前にいた。画面には先ほど杏から共有されたデータの冒頭部分が表示されている。
「このプロトコル、マイクロ波パルスと外部コマンドが同期してる……まさか、あの時の装置が……!」
思わずつぶやいたそのとき、背後で真奈が静かにドアを開けた。
「杏から、連絡来たの?」
「来たよ。……挑戦状ってさ。あの人、そう言ってたらしい」
真奈は表情を変えずに頷くと、データの山を一緒に確認しはじめた。光平は、ふと笑った。
「だけど、杏ってすごいよな。あんな言葉で、あんな相手に……ひるまなかったんだ」
一方、貴大は図書館の閉架資料室で、工業法規の抜粋を調べながら、データの中に記された“制御責任の空白”に気づいていた。
「これは……この設備、行政監督が通ってない。つまり、責任者の所在が不明なまま稼働できる……!」
その瞬間、杏からのグループメッセージが鳴った。
《作戦コード“ホーリースタビリティ”を提案します。最終ブリーフィングを明日18:00、市立図書館地下書庫で。全員、出られますか?》
すぐに「了解」と返信したのは敬太だった。
「いよいよお祭りって感じじゃん! ハッピーエンドにするぞーって、な!」
和馬はその横で、工具箱を開けていた。トラックのブレーキ構造を模した実験模型が、彼の手元にある。
「止める準備は整ってるよ、杏」
佳奈子は全体の進行表を見直しながら、そっと口角を上げた。
「……街の未来、守る時間ね」
そして紗季は、自室の窓を開け、夜空に向かって小さく口にした。
「幕開けの鐘が鳴る前に、最後の一句。――『光より、速く走れよ、つよつよ魂』」
その言葉が風に乗り、晴海市の空に溶けていった。
次なる戦いは、最後の決戦へ。
――ゼータ炉起動予定日、12月25日・午前一時。
その時まで、あと――一日。
(第26話・完)
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