第25話「チーム分裂再び――心の臨界点」

 市立第二中学の体育倉庫は、冬の冷え込みの中でもなお、わずかに暖かさを残していた。体育祭のときに使った横断幕や、部活で使い古されたマットが壁沿いに積まれ、その隙間に七人の姿があった。

 佳奈子がノートPCを開き、タブレットを机代わりにタイムラインを表示していた。そこには「ゼータ炉起動まで残り12日」の赤字カウントダウンとともに、〈ブライトシーカーズ〉全体の行動計画がびっしりと書き込まれている。

 だが、その中央に——ひとつ、赤い“保留”の文字が点滅していた。

「……で、私はもう、時間配分の調整とか放棄することにしたわ」

 佳奈子が、あくまで穏やかに、だがぴしゃりと宣言する。

「これ以上“破壊するかしないか”で揉めてたら、計画全体が破綻するから。私は、時間と資源を管理する人であって、ジャッジ係じゃない。そこ、はっきりして」

 しんとした空気が、体育倉庫に落ちる。

 杏は、肩にかけたジャケットを少しだけ握りしめた。顔には焦りよりも、決意が滲んでいる。

「わたしは、止めるよ。あの装置が起動されるくらいなら、燃料ケースそのものを壊したって構わない」

 その言葉に、最初に反応したのは貴大だった。

「杏。君のその“力で解決する”やり方は、今回ばかりは危険すぎる」

 彼は手元の資料を広げながら続けた。

「そもそも、施設への侵入は違法行為だ。仮に破壊したとして、ケイオス社は僕たちを訴えるだろう。証拠と正義は僕たちにあるかもしれないが、それを台無しにする行動だ」

 「だけど!」と、杏が言いかけたその瞬間——

「俺は杏に賛成だ」

 和馬の静かな声が割って入る。彼は資料のファイルを閉じ、まっすぐに貴大を見た。

「法律は大事だよ。でも、間に合わなかったら? 止められなかったら? “あの時、もっと思い切った行動をしてれば”って、そう後悔するほうが怖い」

 その言葉に、杏が一瞬だけ表情を緩めた。だが、空気は一層ピリついていく。

「それは短絡的だ。僕たちがやるべきは、科学的・法的に装置の危険性を証明して、正当な手続きを通して阻止することだろ?」

 「もう時間がないんだよ、貴大!」

 杏の声が少しだけ震えた。

「証明なんて、十分すぎるくらいにやったじゃない。データも証人も、危険な兆候だって——。でも、行政はまだゼータ炉を止めてない。じゃあ、誰が止めるの?」

 その問いに、誰もすぐには答えられなかった。

 沈黙を破ったのは、紗季だった。

「たとえるなら、いまの私たちって、川の氾濫を前にして“堤防の強化”と“土のうでふさぐ”で争ってるようなものね」

 「……つまり?」と敬太が首をかしげる。

 「今すぐ水が来るなら、どっちもいるって話よ。急場しのぎと恒久対策、両方いる。でもね、ふたつを同時にやるには、堤防を強化しながら、誰かが冷たい水に足を突っ込まなきゃいけない」

 「で、誰がその冷たい水に入るの?」と、佳奈子が呟くように言った。

 杏と貴大の視線が、すれ違った。




 しばらくの沈黙が続いたのち、杏は口を開いた。

「もう、わたし、時間使い切ったよ。悩んで、迷って、それでもまだ誰かの答えを待ってた。でも違った。わたしは、この街を守るって決めたんだ。だから、やる」

 その声には、静かな覚悟がにじんでいた。

「破壊行為はやめるべきだ。君がそれをやったら、“正義の部活”じゃなくなる」

 貴大の言葉は、厳しさのなかに憐れみのようなものを含んでいた。

「破壊って言ったって、それで装置が止まって、街が守れるなら――」

 「それはもう、正義じゃない。“勝手な裁き”だ」

 貴大がきっぱりと遮った。

 その瞬間、杏の目の奥に、火が灯ったような気がした。

「……わたしの正義を、勝手って言うんだ」

 「言うさ。君が自分の信念で動いてるのはわかってる。でも、法や社会の枠組みを無視するなら、僕は止める」

 「やってみなよ」

 杏の目が、まっすぐ貴大を見返す。

 思わず息を呑んだのは、光平だった。ふたりの会話は、もう“議論”ではなく、“決裂”に近い。そんな雰囲気だった。

 和馬が立ち上がった。

「それでも、俺は杏のやり方を否定しない。どんな方法でも、街を守るっていう、その一点だけは正しいと思うから」

 それに対し、貴大も立ち上がる。

「僕は否定する。破壊で守ることなんて、ない」

 そして——バタン、と静かに閉じる音がした。

 ドアのほうを振り返ると、佳奈子が、ひとことも言わずに出ていったのだった。

 彼女のリュックには、スケジュール表も、タイムラインも、緻密に組み上げられた作戦計画のデータも、全部入っていた。

 だが、その背中には、冷えた風のような“諦め”がただよっていた。

「佳奈子……」

 真奈がつぶやいたが、彼女は振り返らなかった。

 残った数人は、誰もが言葉を失っていた。

 その沈黙を、紗季の声が破った。

「まあ……冬の夜には、落とし穴も凍ってる、っていうからね」

 「どういう意味?」と敬太が聞くと、紗季は肩をすくめた。

「つまり、落ちても痛みを感じないかもしれない、ってことよ。でも——底が抜けてたら、どこまでも落ちるだけ」

 冗談のようで、冗談に聞こえなかった。

 杏は、自分のリュックを掴んで立ち上がった。

「ごめん。もう、決めたから」

 そのまま、体育倉庫をあとにする。

 残された誰もが、その背中に言葉をかけることができなかった。

 まるで“臨界”を超えてしまった反応のように。何かが、もう元に戻らないほど進行してしまったようだった。




 夜の校舎裏には、杏の足音だけが響いていた。

 誰かがついてくる気配もなかった。だが、杏はそれでよかった。ひとりで決めたこと。ひとりで責任を取る覚悟も、とうにできていた。

 歩きながら、ふと、佳奈子の手帳のページを思い出す。几帳面な字で書かれた〈12月25日:ゼータ炉起動〉の赤丸印。それを、いまの杏は、自分の胸のなかに描き直していた。赤い、まるで火のような意志の円だった。

 一方その頃、倉庫内には、沈黙が続いていた。

 「これ、まずいよね……」と敬太が苦笑まじりに言う。

 「まずい、っていうか、臨界点よね」と紗季が同意した。「温度が限界まで上がって、もう冷却材が間に合わないってとこ」

 「物理で言うならそうだけど、人間関係で言うならどうなるの?」と真奈が尋ねると、紗季は少し笑ってから答えた。

 「焼けるか、砕けるか、もしくは——新しい相転移が起きるか」

 誰もが、彼女の“詩的な表現”の意味を深く考えずにはいられなかった。

 そのとき、貴大がゆっくりと口を開いた。

 「……僕は杏を止めたいわけじゃない。止めるために反対してるんじゃない。ただ、守りたいんだ。彼女自身を」

 「それって、杏には届かないかもね」と和馬がぽつりと呟いた。

 「でも、俺は……杏がそうやって自分で決めて進んでいく姿、嫌いじゃない。むしろ、あれが杏らしさなんだって思う」

 光平が、ノートパソコンを開いたまま、沈黙を守っていた。彼の目には、操作中のモニターよりも、どこか遠くを見つめるような影があった。

 真奈がその視線に気づいて、そっと尋ねる。

 「光平、どうするの? データ解析、間に合う?」

 「うん……間に合うけど、たぶんもう“間に合うか”の問題じゃないんだ」

 光平の声は、静かで冷静だった。

 「これは……もう、答え合わせじゃなくて、選択の段階に入ってる。誰が、どこまで踏み出せるか」

 その言葉に、全員が息を呑んだ。

 まるで、地下の炉心を覗き込むかのような、得体の知れない予感が、倉庫に満ちていた。

 そして誰よりも早く動き出したのは、意外にも、真奈だった。

 「私は、もう決めてる。杏がどっちを選んでも、私は後悔しない道を選ぶよ。たとえ、また謝らなきゃいけないことがあっても」

 彼女の言葉は、どこか祈りのようだった。

 佳奈子のいない部屋で、それでもチームの灯は消えきっていなかった。

 ――ただ、いまはそれぞれが、それぞれの場所で決断する時だった。

 冬の夜空に、小さな星が一つ流れた。

 誰も気づかなかったその一瞬が、やがて、大きな分かれ道のはじまりになるとは、まだ誰にもわからなかった。

(第25話・完)

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