第6話「潜入!臨海研究棟(前編)」

 5月6日、土曜日の午後。

 海沿いの強い風が、白い建物の壁面を撫でていた。晴海湾に面したその一角、金属とガラスで構成された未来的なデザインの施設には、青と銀のロゴが掲げられている。

 ――〈CHAOS INDUSTRY 臨海研究棟〉。

 本日、“市民向け見学デー”。

 イベント名は「地域共創テクノロジーツアー」。子連れの家族や、技術系の学生グループ、高校の物理部らしき一団がぞろぞろと入口に集まっていた。

「まさか……こんな公開イベントやってるとは思わなかったね」

 杏が制服の上に羽織ったジャケットを整えながらつぶやく。

「逆に、堂々と入れるチャンスってことだよ」

 と応じたのは、貴大。彼は真面目な顔で“市の学生見学許可証”を提示しながらゲートを通過した。

「参加者名簿も事前登録済み。滞在予定時間も申告済みだ。これなら、入場記録を取られても言い訳できる」

「さすが、準備力がすごい……」

 と、呆れたように笑ったのは和馬。今日の彼は荷物持ち兼護衛役。リュックには非常用の手袋や簡易無線機、救急セットまで入っていた。

「予定通り、ガイド付き見学ルートに紛れて、要所の情報を拾っていく。あとは……」

 貴大がチラリと後ろを振り返った。

「……真奈、準備できてる?」

「うん。通気口配置図は頭に入れた。あと、排気ダクトの数も数えてくる」

 淡々と答える真奈の手には、折りたたんだ方眼紙のメモが握られていた。口調は控えめだが、目は明らかに燃えていた。前回の失敗を引きずってなどいない。

「じゃ、いよいよ〈研究棟の中身〉に踏み込みますか!」

 杏が軽やかに宣言し、四人は堂々と受付を通過した。


 館内に入ると、吹き抜けのロビーには未来的なディスプレイが並び、壁一面のモニターには「ゼータ構想」「都市電力の進化」などの文字が流れていた。

「さあ、こちらが我々の誇る“地域共創ラボ”でございます!」

 先頭で案内していたのは、笑顔がやけに整った若い男性社員。広報部所属のようで、案内トークは滑らかだったが、情報の中身は薄い。

 「一般ルート」の見学は、あくまで演出された安全な空間だけをなぞるものだった。

 しかし、杏は常に周囲に注意を向けていた。案内の言葉を聞き流すふりをして、非常口の位置、ドアの開閉頻度、作業員バッジの色分けなどを観察する。

 一方、貴大は腕時計型のタイマーを操作していた。

「通路通過に要した時間、エレベーターの階数反応……記録は取れてる」

「よし。じゃあ後半、自由見学時間が来たら“分担行動”いこう」

 杏の声に、和馬が少し心配そうに聞き返す。

「バレたらアウトだぞ? 見学証には個別識別タグもついてる。ルート外の移動は履歴に残る可能性もある」

「そこは任せて。タグ、私たちのは全部リストバンド型でしょ?」

 杏はそう言いながら、袖の中でこっそり取り外した。

「磁気干渉で識別データを飛ばすのよ。正面からぶつかるのは無理だけど、制御盤の近くを通れば一時的に干渉できる。“機械の側”に近づけるタイミングを狙えば、タグの履歴がバグるって前に理科室で聞いた」

 貴大が苦笑しながらつぶやく。

「よくそれ、思いつくな……」

「杏だからね」と和馬も笑った。

 やがて案内は“高密度実験棟”前の展示コーナーに差しかかり、担当ガイドが一旦解散を告げる。

「ではここから先は、20分間の自由見学といたします。ご質問は展示スタッフにどうぞ」

 待っていた、とばかりに、四人は小さくうなずき合った。

「よし、分かれて動こう。私は制御室方面の裏手を見てくる」

「真奈は通気口ルートのチェックだ。天井の接合部も記録しておいて」

「俺は時間を見て非常階段を確認する。避難経路として使えるか調べる」

「じゃ、私は――実験ラボへ、忍び込む」

 杏の目に一瞬、悪戯っぽい火が灯った。


 杏は、見学コースの最後尾を外れ、さりげなく別の通路に滑り込んだ。

 白く光る床、ガラス張りの天井、静かすぎる空気。明らかに一般用ではないこの一角に、足音だけが響く。

 途中、誰もいない実験準備室の前で足を止めた。部屋にはドアが半開きになっており、内側からかすかに機械音が聞こえていた。

(今しかない)

 杏は足音を殺しながら、滑り込むようにして部屋へ入る。

 実験台には、シートで半分覆われた金属筐体が置かれていた。その横には資料ボックスと表示パネル。杏はそっとスマホを取り出し、連続撮影を始めた。

(この装置、熱反応系の構造? それに……この液体カプセル。なんだか変な色)

 そして――パネルに表示された文言に目が止まった。

「ゼータ試験炉・副試薬リスト(準備段階)」

 杏の心臓が一気に高鳴る。証拠がここにあった。

 だが次の瞬間、背後で音がした。

「誰だ、そこにいるのは?」

 反射的に杏は棚の影へ飛び込んだ。入り口に作業服の男が現れ、警戒するように辺りを見渡している。

 その間にも、スマホはまだ連続撮影を続けていた。

(お願い、早くどいて……)

 数十秒が永遠のように過ぎたのち、男は不審者が見当たらなかったらしく、首をかしげながら退室していった。

 杏は息を詰めたまま、そっと立ち上がった。

(撮った……!)

 そのとき、内ポケットの通信端末が震えた。貴大からの短文。

「10分後集合。南通路側にセキュリティ動作感知。撤収を」

「了解……!」

 杏は資料ボックスに目をやったが、それ以上手を出さず、その場を後にした。

 十数分後――四人は予定通り、見学終了の時間に合わせてロビーへ戻ってきた。

 誰も、問い詰められたりはしなかった。

 だが――。

「見つけたよ」

 杏が誇らしげにスマホを掲げた。そこには、試験炉の存在を示す文字列と、異常な成分名が羅列されたリストの写真。

「副試薬の中に……“酸化重水素安定化同位体”ってあった。そんなの、普通の試験には使わない」

 貴大と和馬が同時にうなずいた。

「となると、ゼータ炉が“通常のエネルギー研究”じゃないことは確定だ」

「真奈の通気口ルートも、夜間は作業員ゼロだってわかった。換気だけで守られてる」

 4人は視線を交わし、自然と拳を合わせた。

 ――これが、次の“夜の潜入”につながる一歩だった。

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