昨日の痣は今日も痛い
日下部めいし
第1話
「ごめんなさい。」と申し訳なさそうに僕に言った彼女の顔を思い浮かべていたら、目の前にその顔が現れた。ほんの二年にも足らない間に彼女は随分と変わった様に見えた。思えばあの時ですらこれが普段の彼女だったのかもしれないのに、見知った顔が他人の体にすげ替えられたようだった。
「あの、久しぶり。」
そう言って彼女ははにかんで笑う。驚きよりも気まずさが、それよりも懐かしさが僕の身体中を埋め尽くした。返す言葉を見つけることもできずにただ嗚咽ともなんとも言えない音を発声した。それを聞き取れたのかどうかはわからないが彼女はまた小さく笑う。
「三神くんまだこっちにいたんだ?久しぶりに地元帰ったらいてびっくりしちゃった。」
「いや、俺も最近戻ってきたんだ。就職前に親に会っとこうと思って。」
そう言って僕も笑ってみせた。笑顔が引きつってないか心配だった。
「そっか。じゃあまたね。」
「うん。また。」
彼女は手を振って離れていく。それを眺めることもできず、顔を逸らして僕は歩き始めた。
二月の終わり。街明かりに照らされ降り敷く雪に、ほのかな朱色がさしていた。
春っぽいなと思った。教室の隅の一角で。寒い冬が終わりクラス替え。恋愛なんて無縁だった僕を、一目で引き摺り込んだ。
「ここ?かな。隣の人?」
毎年訪れる花粉と悪戦苦闘していた僕が最初に聞いた彼女の言葉だ。
「うん。よろしく!」
そう返事したのは生憎僕ではない。僕の二つ前の席。彼女の隣は僕の友達だった。なかなか人と仲良くなるのがうまいやつで、例の如く彼女ともすぐ打ち解けていた。それが羨ましくもあり妬ましくもあり、それでも彼と僕は友人だからそんな感情は抱いていない。そういうことにして乗り切った。その日の授業は、耳は働いていたのだけれど、目がいうことを聞かず、斜め前ばかり見てしまった。そのせいで幾分か耳の働きを無駄にしてしまった。すまない僕の耳。
放課後になると生徒たちは一斉に部活動の準備を始める。僕も野球部の準備を。勘違いのないように言うと、弱小野球部の練習準備を始めに教室を出る。件の友達もチームメイトだ。当然一緒に廊下に出て部室へ向かう。向かいながら駄話が始まる。新学期初日の話題なんて当然クラス替えが九割だ。やれどこのクラスがよかっただの、やれ隣のクラスは可愛い子が多いだの。そんな他愛もない話。
「三神は今回のクラスどうだ?俺は正直隣がよかったな。可愛い子も多いしさ。」
そう話を振ってきた彼に僕は思わず口走ってしまった。
「そう?うちのクラスも可愛い女子いるじゃん。」
いつもなら僕は彼を嗜なめる。「そんなこと言わないの。」などと。でも今回は違った。なんせかれこれ三年の付き合いに突入しそうな彼のことだ。当然僕の異変に飛びついてきた。
「へえ。珍しくね?三神がそういうこというの。」
「そう?俺もこれくらいのことは言うよ。」
そう言って言い逃れを図る。図るだけでは机上のなんとやら。成功しなくては図った意味も何もなし。今回はなんとやらで終わった。
「誰?」
あまりにも無邪気な彼の瞳に僕は純粋に恐怖した。彼は僕の意中の人を聞き出すことになんの躊躇いもないのだ。そこにあるのは純然たる好奇心。そして少しの遊び心。人間たまには童心に帰ったほうがいいらしいと言うのに、いざ童心に帰るとおそらく周囲の人はただ単にそれをおそれるだけだろう。そう結論づける僕に彼の表情はひとえに恐怖のみを植え付けた。
「誰でもないって。ただ可愛い人はうちのクラスにもいるんじゃない?って話をしただけだよ。一般論的にさ。」
だがこの三神という男、つまり僕。伊達にカマトトを気取ってない。色恋沙汰への疎さを演じることに関して右に並ぶものはいないという自負がある。そんな自信はたった一つの出来事によって脆くも崩れ去ることになる。
「あ痛っ。」
廊下の角に差し掛かろうかという時に、角の向こうから飛び出してきた人にぶつかった。彼女だった。
「あ、ごめんなさい!急いでて!大丈夫ですか?」
彼女の顔を見るなり僕は思わず顔を逸らしてしまった。正直視界にその表情が収まるだけで赤面しそうだった。
「大丈夫です。こちらこそすみません。」
蚊だってもう少しハキハキと喋るだろうと思うほど消え入りそうな声で、僕はそう言った。彼女は僕の言葉を果たして聞き取れたのだろうか。
「無事ならよかった。すみません!」
そう言って彼女は走り去っていった。卓球部のジャージを着ていた。
「卓球部かあ。」
そう呟いたのも、一部始終も全て彼に見られていたし聞かれていた。
「お前、あの子かよ!俺の隣の席の子じゃねーか!」
そう彼は笑いながら話しかけてきた。言い逃れなんてもう必要ない。釣り竿が必要なのは魚が釣れるときだけ。そうじゃないか。だから言い訳なんて必要なかった。
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