路地裏クラカッタ

上部 留津(うわベ ルヅ)

本編




 日本。とある街。路地裏――――





 ビルと建物が織りなす、橙色の光と影のグラデーション。


 這いつくばった塵やゴミがへばり付くコンクリートと、地面に撒かれた泥と自然の混合物。


 入り組んだ隙間と風は行き場を失い、その場で漂っている。



 そこで男が一人、邂逅を果たす。


 ひと気の無い、静寂に覆われたこの場所で、男は一人の女を見た。



 麗しき、乙女。可憐、愛らしく、ミステリアス。

 大人びた背格好に度肝を抜かれた。


 彼女はバニーガールだった。

 ……ただし、「逆」の。



 つまりその姿は、極めてリアリズムから乖離した存在とされてきた……ということである。

 空想上の、二次元的で、夢のような。

 いや、本当に夢を見ているのでは?


 信じられなかった。

 が、現に目の前、彼女は存在している。



 二度見三度見を果たして、目を凝らして観察する。


 本来露出する部分は黒い衣服を纏い、普段露出しない部分には何もない。丸見えだ。

 ただし、恥部には黒いハートのシールが貼られていた。



 …………どういう、ことだろうか。 


 しかし、ここは路地裏。

 日照権の主張がまかり通りそうなこの場所では、男のまなこは都合の良い解釈をし、その興奮を露わにした。


 正気ではなかった。

 そもそも、こんな外れた場所に来てしまった訳さえ忘れてしまった彼にとって、正常な思考を求めるのは間違っている。


 ――あの女をどうしてやろう。


 溢れる欲と荒ぶる理性。

 吐息が思わず漏れる。


 本能が二人の距離を近づけたそのとき、端を発した女の言葉で物語が始まった。


「ねえ、もしこの世界の裏側にも、別の世界があったら」


「え?」


 艶やかな声。それでいて幼い発声に、なぜか男は我に返った。

 頭の奥にまで入り込んでくるような声に快感を覚え、言わずもがな虜になった男。

 耳を傾けた。



「あなたのその世界に行きたいと、思ってくれる?」


「え、あ、ああ! もちろんっ!!」


 即返答の空返事。

 バカの一つ覚えで頭を振るのを見て女は内心がっかりした。


 それまで薄っすらと微笑んでいたはずの顔も生気を失い、溜息をついたのだ。


「そう…………」


 壁に繋がっているパイプを見つめ儚げな彼女を横目に、男は一抹の不安に苛まれる。


 ――ああ、もしかして自分は返答を間違ってしまったのだろうか。

 彼女のその反応はなのだろうか。


 …………と。




 それが邪推だと信じて止まない男は、ひとまず、いったん、いや……とにかく思考を巡らせた。

 この出会いを無駄にしない、最善を尽くすための思考…………


 どの言葉をかけてあげれば彼女が振り向くか。

 どうすれば彼女は自分に興味を持ってくれるか。



 男の足りない頭で考えた結果、僅か十数秒のこと。


「その『別の世界』には何があるんだ?」


 出した答えは、「極めてシンプルな質問」だった。

 興味をある振りをしよう、そういう魂胆だ。

 ありきたりを通り越して、もはや清々しさを感じる。


「…………」


 だが、そんなバカみたいな言葉がかえって女の心にツンと響いた。

 

 ただ性欲に塗れた男の一つ目の返事には、ただ女に対する興味――性欲でしかなかった。

 それ故彼女は拒んだのだ。


 しかし二つ目の返事。

 それは純粋無垢な、心の底から「知りたい」という欲望を感じた。

 


「別の世界っていうのは、闇の世界」


 未だ男の性欲を懐疑しながらも、女は静かに口を開いた。

 そして語り出した。自身に与えられた、たった一つの使命を胸に…………



「この世界には二つの世界が存在する。


 一つは光の世界。

 一つは闇の世界。


 人間が暮らす光の世界は、太陽という名の光に照らされることで存在・実体を獲得し、その生を全うすることができている。自由に満ちた、この地球で」


 おとぎ話を読み聞かせるような優しい声で、悲しげな瞳の女は胸に手を当て、次々と言葉を連ねていった。

 しかしそこには、まるでそれが現実だと感じさせるような危うさを兼ね備えていたような気がする。


 語りは続く。


「でも私たちが暮らす闇の世界には、太陽も電灯もない、光すらない……世界が陰に覆われている。暗い、暗い、闇の底で暮らしている……」


「っ……」


 胸がきゅうと詰まるような気持ちのまま、男は真剣に聞いていた。

 誰が聞いてもファンタジーだと感じるような嘘っぱちを、どういうわけか自分事のように聞いていた。

 まるで、自分が体験しているかのような気分にさえ陥っていた。


 そして彼は真に気付いた。

 彼女の声には妙ながあると。

 現実味の正体は、彼女のその幼く艶やかな声質にあるのだ。

 

「光がないと、自分たちの形を知ることができない。そこで、実体を獲得できない私たちは調査し、画策を重ね、ついに方法を見つけた。それは」


「それは?」


「…………」


 突然女はもったいぶって続きを離そうとはしなかった。

 しかし、男はそれを気にする素振りを見せなかった。


 話半分で、女の身体しか見ていなかったからだ。




 やがて風が、コンクリートの冷たさを頬に掠めた。


「――あなたには、一つお願いがあるの」


「ん?」


 女が男を闇の世界に誘おうとした狙いは、以下の言葉に表れていた。


「この世の中で最も光り輝いてるものを探して、ここに持ってきてほしいの」


 女は互いの距離を縮め、男の間近に迫って懇願した。

 わざとらしく瞳をうるうるさせて、上目遣いで男を見つめた。


 これを言いたいがためにいちいち説明をしていたんだ、と言わんばかりに女はぐいぐいと詰め寄ってくる。


「そ、それを使ってどうするんだ?」


 破廉恥な女体を目前に、男は冷静を装うために質問を投げかけた。


 光り輝くもの……いろいろあるだろう。

 電球、蛍光灯、懐中電灯。ろうに灯った火、生物なら蛍、海月くらげ。あるいは……太陽を始めとした恒星。


 闇に覆われた世界に光ができるなら、そこに住む生物は実態を獲得できる……はずだ。

 なら、女が言いかけた「方法」とは?


 もっとも、それが「光り輝くもの」によって成し得ることができるのならいいが、女の言葉を信用しきれずにいるのもまた事実。


 まともに話を聞いていなかった男だったが、そこだけが妙に、喉に刺さった小骨のように引っかかっていた男はその疑問をぶつける。


「お願い。私のために、ね?」


 だが、女は答えてくれない。

 色仕掛けを使って、ただ男の了承を得ようとするだけだ。

 男の気など知れてはくれない、所詮性欲に塗れたサルだと心の内では見下しているのかもしれない。


 それが却って男の疑念を肥大化させていったことに、女はまだ気づいていない。




「すまん。目的がわからないことにはどうにもこうにも…………」


 当然、行けるのなら行きたい。あなたと。

 ただその前に、何をするのかははっきりさせたい。


 男が密かに持っていた慎重深い性格がここに来て邪魔をしてくるとは、本人でさえも予想できなかった。


 もちろん、女でさえも。


「え、いや、だって、さっきあなたは――――」


 会って最初に、あっさりと「もちろん」と答えていたはず。


「ああいや、さっきはごめんな。そっちの事情も知らずに、二つ返事なんて…………」


 女との会話の中で、男は冷静さを取り戻しつつあった。

 未だ女の格好には慣れないが、多少は頭が回るようになっている。


 に対する女はと言うと、会ったばかりに魅せていたミステリアスな雰囲気は薄れ、今にも化けの皮が剝がれそうだ。

 男の心に付け入ろうとするその魂胆が、若干見え隠れしている。


「やっぱり、あんたのやりたいことがはっきりしないことには――――」


「私じゃ、ダメなのぉ?」


 咄嗟に取り繕ろうとする女は崩れつつあった妖艶な口調を取り戻すも、逆効果。

 殊更男の疑念を増長させ、加えて女自身の疑念も追加されてしまったのだ。


「そういうわけじゃないけどさ。なんかその……そもそも怪しいだろ。なんであんたがここにいるのか、とか」


 先ほどまで女の御伽噺を自分事のように聞いていたのが阿呆らしくなるほど、男はすっかり正気に戻ってしまった。


「それはだって……そういうものでしょ? 気にしなくていいの」


「いや、まずここはどこなんだよ。よく見たら、通路の奥が見えないし――――」


 今の今に至るまで一切気にならなかったが、この路地裏確かに変だった。

 男の言う通り、この路地裏はどこにも通じそうにない、果ての無空間を形成している。

 無限に連なる建物。壁。コンクリート。


 ――身震いがした。


「…………!」


 逆バニーの衝撃で周りが見えていなかった。

 この路地裏も、女も、一向に沈み切らない夕日も、くたびれた建物も、延々と一定の速度で流れる隙間風も。

 目に見えるすべてが、この世のものではない。



 ……すべて、女が仕組んだ罠なのでは?


「ちがう!」


 否定する女。明らかに心を読んでいた。


「え……?」


「いや、これはちがくて、その、あっ」


 戸惑う女。嫌悪に襲われる男。

 風に揺られた空き缶がカラカラと鳴り、静寂が訪れた。




「やっぱり、かよ」


「っ!」


 男の目に現れ始める、諦念。

 何よりも嘘を嫌った男にとってそれは、あまりに残酷な結果と言えよう。

 今まで本気まじになって聞いていた自分を憂い、後悔した。


「結局目の前のあんたは幻で、さっきの話は全部嘘で、それを信じた俺はとことんアホだって」


「違うの! さっきの話はホント――――」


「こんな現実離れしたことしやがって、何なんだよあんたは!」


「だから、光り輝く――――」


「まだそんなことっ!」


 男の手は、いつの間にか女の袖を掴んで壁に押し付けていた。

 怒りのぶつけ方を知らない男の荒々しさを、女は戸惑いで返すことしかできなかった。


「ついさっき両親がってのに、何をしようってんだ……」


……?」


 男と目を合わせるのが怖くなった女は、自然と震える手に注目していた。


「大学も辞めさせられて、就職先は見つからない、危うく痴漢にも間違われそうにもなった! 何者にもなれねえ俺を閉じ込めて、あんたはまだ俺を!」


 感情が高まり自身の過去を吐露し始めた。

 可哀想で散々な人生。

 誰が為に生きることが許されない人生。

 同情などでは、到底気持ちは晴れないだろう。



 しかし、女の放った一言がすべてを変えてしまった。



「ねえ、『しんだ』って何?」



 純粋な気持ちの篭った疑問。質問。命題。

 その真っ直ぐな顔、本当に知らないのではないだろうか。

 そう思わせるほどの、まるで幼児のような無垢さで女は問う。


「おい、そこで何をしている」


 同時に、声の張った低い男性の声が左から聞こえてきた。

 硬直した体をゆっくり回すと、そこには夜明かりに照らされた警官が二人立っていた。


「!」


 状況が呑み込めず咄嗟に目が泳ぐ。

 まずい、こんな姿を見られれば自分は…………

 吐きそうになるほどの罪悪を感じ、すぐさま視線を戻した男。


 そこには、ウサギの人形の肩を力強く握りしめる、男の手があった。


「え…………ここにいた女は…………」


「女? いないよぉ、気でも狂っていたんじゃないのか?」


 あたかも最初からいなかったような反応を見せる警官。

 やはり、幻を見ていた? 男は本当に気がおかしくなりそうだった。



 結局、今までのやり取りは自身が生み出した創造で、はなから妄想の範疇だった。

 男は自ら持ち寄ったウサギの人形に「女」の人格を生やし、その一言一句に一喜一憂していた。

 逆バニー姿でさえもただ「そうあってほしい」と願った男の願望で欲望だった…………





 ――信じてたまるか。

「――信じてたまるかよ!」



「お、おい、待ちなさい!!」


 がむしゃらに、走り出した。

 制止を振り切り、男は道という道を駆け抜けた。

 警官のことなど忘れ、ただ一心不乱に。



 月の出た空の下、街を歩く人々は皆帰路を辿っている。

 独りきりのサラリーマン、遊び足りない学生の群れ、デートの続きをするカップル、お出かけをしてきた親子。

 降りかかるリアリズムを盛大に掻き分けながら、どこへでもない場所へ走り去っていく。


 時にはぶつかり、文句を言われたことさえあったがそれが耳に入ることなどなく、ただぐしゃぐしゃになった心を握りしめるだけだった。

 見てられない状態であることを自覚しつつも、ただ、ただ…………男は耐えきれなかったのだ。


「はぁ…………はぁ」


 やがて辿り着いた――――また、路地裏。

 空は虚ろ、雲がかって照らす光さえない。


 さっきの路地裏とどこか似ていて、どこか違う。

 その曖昧さが心地よく、男は安堵からか力が抜けてしまった。


「うぅ…………!」


 それから、泣いた。

 今まで堪え凌いできた感情の器は崩壊し、大粒の涙が頬を垂れていく。

 感情を押し殺したあの道中、やるせなさと憤りが男の中でごちゃ混ぜだった。


 そして思い出す、女の顔。


 どうしてあいつは出てきたんだ。

 どうして、俺はあんなことを女に言わせたんだ。

 どうして、あいつは


 思い出せば思い出すほど、自分が生み出した嘘の煩雑さに頭を抱えた。

 精神的に参っているのか疑うほどに、男の脳内は狂ってしまったのか。


 それとも、女のような存在が恋しかったのか。

 あるいは、誰かの役に立って自分の生きる意味を作り出そうとしたのか。

 ――そんなこと、出来ないくせに。


 わからない。わからなかった。

 うずくまった男は自身のみすぼらしさを俯瞰する暇などなく、ただ静かに、涙を隠した。


「わかんねえよ……」


 男は苦しかった。

 そもそもあのときの出来事が本当に嘘だったかさえわかっていないのだ。

 嘘と現実の曖昧な境界線を跨ぎ、右往左往している。



 はっきりしたかった。

 嘘なら、上手く割り切って明日のことを考えられるかもしれない。

 現実なら……きっと女の言う通り「輝くもの」を持ってきて、ひょっとしたら闇の世界を救ってしまうかもしれない。


 ――でも、そんなこと、本当はわかっている。

 あり得ないことなんだと、そんなことは夢でしかあり得ないんだと。


 ただ、男は信じたかった。

 僅かな望みを、一握りの希望を、願いを信じてみたかっただけなのだ。


「全部嘘だったのかよ…………?」


 ウサギの人形を掲げ、ついに問いかけてしまった。

 問いかけて初めて、男は自分のしたことの愚かさを知った。

 もはや誰も、男のことなど気には留めない。



 そのとき、その愚かさを肯定してくれる人が目の前に現れた。



「全部、本当のことだよ」



 女の声が、聞こえた。

 で聞いた、幼く艶のある声。


「ごめんね、騙すようなことして。でも、そんな気はなかったの」


 今、目の前には女がいた。

 逆バニーを着て恥ずかしそうにしている女の姿が、そこに。


「あんた……う、嘘だろ…………?」


 また、泣き出しそうになった。

 男の悲観がすべて打ち砕かれ、否定され、女がそこにいる。


 嘘ではなかった。現実だ。

 それがたまらなく嬉しかった。


「この姿って、私随分すごい格好してたのね……ちょっと恥ずかしいかも……」


 出てきて早速、格好の破廉恥さに顔を赤らめる女。

 今さらすぎる事実に男は拍子抜けした。


「え…………」


「ふふ。光の世界を見てわかったの。新しい世界に来て初めて分かることもあるのね」


「はは、何だよそれ…………ふっ、今気づいたのかよ……!」


 やがて堪えきれなかった男が笑い出した。

 それに釣られるように女も笑い出し、ようやく二人はお互いに笑顔を見せ合うことができた。


 そのとき、男と女は初めて互いに理解し合うことを知ることができたのだ。




 そして、だんだんと空の色がより深い藍色へと変化していく。

 ひとしきり笑い終わった後、女は語り出した。


「実は、さっき私が言った『実態を獲得できる方法』っていうのは光で照らすことじゃなくて、その逆」


「逆?」


 きょとんとする男に対し、女は言葉を更に連ねる。


「もっともっと暗い闇を作り出して、元々曖昧だった存在を更にぼやけさせる。そうして私たちは自分の思い通りの姿になることを可能にしたの」


 女の言っていることはつまり、真っ暗闇の中なら誰もその人の本当の姿を知る人はいない、ということだと男は理解した。

 しかしそんなことができるほど、闇の世界の住人は自由な存在なのか。

 男は質問した。


「いいえ、むしろ自由に存在を変えられるからか、あるいは…………闇の世界の人たちはみんなおかしくなってしまったの」


 途端に表情を曇らせた女は、壁にもたれかかったまま座り込んだ。。

 そして声を震えわせながら、闇の世界の住人の現状を話し始めた。


「闇の世界には光が極端に少ない。人間が日の光を浴びないと弱ってしまうのと同じで、光を適量摂取しないと私たちは精神を病んでしまうの。だから昔は、実体を得られなくても光があってみんな笑顔で楽しそうだったのに……」


「みんなは、光より実体を持つことを望んだのか?」


「違う! みんなをまとめるリーダーが変わって、それから、そのリーダーに従って……いやいや従ってるの! でも精神はおかしくなるばかりで、争いや喧嘩が絶えなくて……本当に……嫌になっちゃう」


「だから、俺に…………」


 女が男の前に現れた真相。

 それは、女が住む世界の危機を救ってほしいという彼女なりのSOSだった。


 事の重大さを肌で感じた男は、どういうわけか自分にかかる重力が増すのを実感した。


「本当は、闇の世界に来てから説明するつもりだった。でも、あなたはずっと、私が思ってるよりしっかりしていた」


 それってつまり、最初自分は下に見られていたということでは?

 多少悔しさを覚えたが女にはそんな気はさらさらないらしく、単純な褒め言葉として言ってくれたようで男は少し嬉しかった。


「あなたに会えて良かった」


「っ」


 満点の笑みが零れる。

 にこっと笑う彼女の笑顔はまるで、正しく、『光り輝くもの』のようだった。


 男はそのとき、それが「答え」だと、胸の内で確信した。


「それだ!」


「え?」


 男はその確信を女に伝えようとしていた。

 だがその直後、男がすっかり忘れていた事柄が彼を襲う。


「いたぞ! あの男だ!」

「変な恰好な女もいるぞ!」


 怒鳴り声を上げる二人の警官。

 男は、つい先ほど職務質問から逃げ出していたことをとうに忘れていた。

 おまけに、女の格好の不審さにも気づいたらしい。



「まずい! 逃げなきゃ――」


 焦る男。

 しかし女もすぐにこの状況を理解したのか、男の手を取り、


「ついてきて!」


 と言い路地裏の奥へと走り出した。


「まだ逃げるつもりだ!」

「追えー!」



 突如始まる警官との追いかけっこ。

 警官共の足は速く、もしこれがただの一直線ならばとっくに追い付かれていただろう。



 ――だがここは路地裏。

 

 ビルと建物が織りなす、藍色の光と影のグラデーション。


 這いつくばった塵やゴミがへばり付くコンクリートと、地面に撒かれた泥と自然の混合物。


 入り組んだ隙間と風は行き場を失い、その場で混じり合っている…………



 女にとっての庭なのだ。




「くそ、どこいった……」

「逃がしたってのか……!」


 徐々に遠ざかっていく警官共の声。

 女が走り出してたった一分、それだけの時間で二人は逃げきってしまうことができた。


「すげえ……」


「ここら辺はたまに来るからね」


 まるでこちらの世界とあちらの世界を行き来しているかのような口ぶりに、男は静かに驚嘆した。


「行き来、できるんだな」


「こうすれば、闇の世界の住人はこっちに来れるの。来ようとする人はあんまりいなんだけどね」


 そう言いながら女は手慣れた手付きで壁に円を描き、何かを唱えると円状のゲートのようなものがセメントの壁に出現した。


 男は思わず、現実を疑った。


「…………」


 一瞬、言葉が出なかった。

 あまりに現実離れした代物を見て、何と形容したらいいかわからなかったからだ。


 いくら目の前にあるからといって、これが一発で「現実」だと受け入れられる人はそういない。男もその一人になるはずだった。

 かつての、男だったなら。


 だが、今は違う。


 女が言ってくれた『全部、本当のことだよ』という言葉。

 その言葉のおかげで、瞳に映るすべてが真実だと思えるようになっていた。

 たとえそれが嬉しいことでも、悲しいことでも。


 男にとってあの言葉は「現実」そのものだった。




 ゲートに取り付けられた扉を前に、女はあるものを持ってきてないことに気付き悲しげな表情を浮かべた。


「でも、光り輝くものはないね…………」


 女の目的、あるいは手段としての「光り輝くもの」は結局手に入れることはできなかった。

 今から探そうにも、まだ警官は近くにいるかもしれない。

 かといって、男が今持っているというわけでもなさそうなのは、彼が手ぶらなのを見れば分かる。


 これでは、光の世界に来た意味がないのでは?

 心は曇っていくばかりだ。



「いや、あるよ。光り輝くもの」


 だが、男は否定した。

 そして戸惑う女の目を見て、その在処を告げた。


「あんたの、笑顔だ」


 女の顔を、指差して。


「え……?」


「あんたのかわいい笑顔を見たとき、思ったんだ。ピカピカしたもの持ってって物理的に明るくするのも良いけど、そんなことするより、その世界の住人を俺たちで笑顔にしまくって、心から明るくなれば良いんじゃねえか、って」



 ――考えもしなかった。

 男の提案は、女の常識を覆すまさに革命的だった。


「……まあ、どうせ光るもの持ってったところで限界ありそうだからな」


「すごい」


 自然と称賛の言葉がぽろりと出ていた。

 それと同時、女は男の隠れた魅力に気づいてしまった。


「え?」


「やっぱりあなたで良かった」


「何だよ急に」


 突然擦り寄り身体を密着させる女に、恥ずかしがる男。

 手を取って微笑むのを間近に見た男はそっぽを向いて気を逸らそうとした。


「やっぱその服変だよ。もっとまともやつ着た方が良い」


「え? なんでそんな話――――」


「いや、ふと冷静になって、あんたの姿見てたら、その…………」


 この反応…………

 もしやと思い、女はニヤニヤが止まらない。


「照れてる?」


 からかう女に対し、図星を突かれた男。

 そして、吹っ切れた。


「うるさい! もうはっきり言うわすぎんだよあんた! すぎ!」


 ついにド直球の言葉をぶつけてしまった。


「うふふ! 何その言葉初めて聞いた、どういう意味?」


 しかし女は、どうやら「エロい」という言葉を知らなかったようだ。

 今は荒れているらしい闇の世界も、ひょっとしたら本来は純真な世界だったのかもしれない。


「あぁ、ガチか……」


 男は女の純粋さに打ちひしがれるしかなかった。




「――――で、この中入ったら、もうそこは闇の世界なんだな?」


 しばらくして、男は問う。

 未だ残存する円状のゲートの扉は、つい先ほど女によって開けられた。


 扉の先はどこまでも暗く、暗く、さらに深い……闇で覆われていた。

 女の言う通り、そこには闇の底のような陰鬱が待っていた。


「入ったら、しばらく戻れないと思った方がいいと思う」


 女は真剣な表情で答えた。

 今まではにかんだ顔を常に浮かべていた彼女から発せられたその言葉は、男の気持ちをより一層引き締めた。


「わかった……」


 どうして戻れないのかと聞き返しそうになったが、それが野暮なことに気付き言葉を飲み込む。

 それを聞こうが聞きまいが、男は…………



「じゃあ、行こう。闇の世界を救いに」


 静かに、それでいて力強く男は言い放った。

 覚悟を決め、決意し、そして……女の手を握った。


「うん。行こう」


 応えるように女も握り返し、ゲートの中へゆっくりと入っていった。




 ――こうして、何の取柄のない男と逆バニーの衣装を着た女による物語は幕を開けた。


 身も心も荒廃した闇の世界を前に、男はたくさんの辛さや悲しさを目にするだろう。


 だが、男には「闇の世界を笑顔にする」という目的がある。


 その目的のため、そして女の笑顔のため、男は決起し立ち上がったのだ。



 ……墨より黒く壮大な大地。

 果てのない地平線を見つめ、二人は闇の底へと落ちていく。


 そこに待つ、隠された「光」を見つけるために――――











 そして、




 一年後。




 彼が光の世界に戻ることはなかった。


 たった一人残された弟は家でずっと彼を待ち続けたが、そんなこともつゆ知らず、男は戻らなかった。


 男に唯一残された者。彼の弟。

 何もかもを失ったわけではないというのに、男は誇張された悲劇を噛み締め女に付いていったのだ。


「あの、すみません……この人知らないですか?」

 

 街で一人、彼を探して欲しいという旨のビラを配る彼の弟は、虚しい現実を受け止め黙々と生きていた。




 ――そして、あの路地裏にはもう、男も女もいなかった。




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