第4章
第21話 実証実験
王国南部、軍事機密指定区域。山中に築かれた巨大な詠唱実証施設は、早朝から緊迫した空気に包まれていた。
巨大な楕円形の観測ホール。中央には直径三十メートルを超える魔法陣基盤が鎮座し、その周囲を防護ガラス張りの制御室が取り囲んでいる。制御室内には兵器局の技術陣が詰め、さらに上層の観覧席には、参謀本部の高官や情報局の要人、外交部の代表らが顔を揃えていた。
壁面には動態解析パネルが並び、構文解析図、マナ流束曲線、音韻安定度グラフ、位相振幅変動表などが次々と更新されている。どの数値も、今や王国軍が独自に磨き上げた詠唱兵器理論の粋を映し出していた。
「──出力開始まで、あと五秒」
オペレーターの緊張を抑えた声が響いた。だがその声の裏には、積み重ねてきた膨大な準備と、それでも拭えぬ不安が滲んでいる。
中央の魔法陣上には、白銀の制服を纏った五名の詠唱士が静かに立ち並んでいた。いずれも王国軍魔導官学校を首席で卒業したエリートだ。マナ誘導用の細工杖を手に、深い呼吸を整えながら静かに目を閉じる。空気が微かに震え始めた。
「出力開始!」
号令と同時に詠唱が始動した。五人の口から発せられる詠唱句が完全に同期し、低く柔らかな音律がホール全体に満ちる。魔法陣全体が淡青色の輝光に包まれ、複雑な刻線がまるで呼吸するかのように明滅した。
制御室内の表示パネルが瞬時に跳ね上がる。魔力流束は急激に増大し、音韻安定度のグラフは高精度の同期を示していた。
「第一段階出力、安定範囲内を維持!」
実験主任が即座に報告する。その背後で、兵器局開発部長がわずかに息を吐いた。
「──この安定度なら、初期臨界域は超えたな」
隣で兵器局長が静かに頷く。
「だが、まだ油断はできん。流束の位相揺らぎが残っている」
オペレーターが画面を確認しながら口を挟む。
「誘導流束、微小干渉波確認。許容誤差内です。累積傾向は現在のところ認められません」
開発部長は一瞬考え、低く呟く。
「……外部から追加の詠唱波動が干渉すれば、この程度の揺らぎが臨界成長の起点になる可能性がある」
「大佐、敵がこれに干渉できるような高出力詠唱を持ち得るか?」と兵器局長が問う。
「現状では考えにくいです。しかし理論的にはゼロではありません」
そんな制御室の緊張感をよそに、観覧席の参謀本部や情報局、外交部の要人たちは、専門的な数値の意味を即座に読み取ることはできない。ただ、表示パネルの曲線が跳ね上がるたび、微かな緊張が走るのみだった。彼らにとって重要なのは、成功か失敗か──結果だけである。
やがて予定時間が訪れ、第一段階の出力は自動停止機構により緩やかに収束した。光は静かに薄れ、空間の振動も止まる。詠唱士たちが一斉に杖を下ろし、深く息を吐いた。
「──実証第一段階、所定条件を満たして完了。安定動作確認」
オペレーターが報告を告げる。制御室内の緊張がわずかに緩む。だが歓声も拍手もない。むしろ場の空気は、これから始まる次の工程を前に一層重く沈んでいった。
ここで、開発部長が通信を開き、観覧席の参謀本部戦略担当部長に報告を上げた。
「第一段階は安定しました。しかし、出力が上がる第二段階では──干渉波のリスクが理論上残存します。外部詠唱の強干渉が重なると、位相誤差の累積により臨界が崩壊する恐れが……」
観覧席の戦略担当部長は無表情のまま短く応じた。
「現実には外部にそのような高出力詠唱を可能とする勢力は存在しないのでは? 想定リスクには含まれない。余計な憶測は控えたまえ」
言下に一蹴され、開発部長は沈黙した。ほんの数ヶ月前まで、この段階の出力実証すら夢物語だった。圧縮詠唱理論の改良、位相補正機構の再設計、詠唱士の訓練カリキュラム見直し……数えきれぬ調整を経て、ようやく今日この実験に漕ぎ着けたのだ。
本来であれば、なお数十回分の繰り返し検証を重ねたいのが開発部の本音だった。だが外交部と参謀本部からの早期成果要求は苛烈で、技術陣は限られた時間内で安全域ギリギリまで工程を詰め込んだ経緯がある。
観覧席の一角では、王国外交部の高官たちも固唾を飲んで成り行きを見守っていた。軍事技術実証という表向きの名目はあれど、今回の実験には重大な政治的背景が絡んでいる。帝国との条約改定交渉が停滞する中、王国側の切り札としてこの詠唱兵器の存在が暗黙裡に示唆されつつあるのだ。成功すれば交渉での優位性が生まれる。だが失敗すれば技術力の未成熟を露呈しかねない──。
開発部長は唇を引き結んだまま、次段階の準備命令を下す。
「第二段階──最大出力移行準備。全制御系、総合診断再実行。詠唱士班、集中維持用補助薬投与を開始」
新たな命令が次々と飛び交い、制御室内の職員たちが慌ただしく動き始めた。詠唱士たちは再び配置に就き、補助官が小瓶を手渡していく。集中力と神経負荷を軽減する調整薬──王国詠唱兵器開発の裏で膨大な臨床試験が積み重ねられてきた成果である。
兵器局長が低く呟く。
「……第二段階は、兵器としての閾値試験に等しい。もしここで臨界を越えれば、制御誤差は一気に指数関数的に膨張するぞ」
「承知しています」
開発部長は短く答えた。しかしその横顔は、技術者としての矜持と不安が複雑に交錯していた。彼の胸中には『検証が足りない……』という言葉が重く沈んでいた。
やがて各系統の準備完了報告が相次ぎ、再びカウントダウンが始まった。実験主任が確認の声を上げる。
「──最大出力移行試験、出力開始まで三十秒」
観覧席の緊張も最高潮に達する。王国の未来を背負う危うい実験計画は、静かに次の臨界へと歩を進めていた。
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