第19話 古老との邂逅
王都の南地区──旧王国時代から続く、細く入り組んだ路地に沿って、古い建物が軒を寄せ合う旧市街に、午後の陽光が斜めに差し込んでいた。
セルヴェルによると、古老はこの辺りに半ば隠棲しているという。所々、両腕を広げると手が壁に触れるくらいの細い石畳の路地を、リィエンは教えてもらったメモを頼りに慎重な足取りで歩いていた。長く伸びた影が、静かな街並みに揺れている。石壁の隙間から伸びた蔦が、柔らかな風にわずかに揺れていた。
やがて、目的の建物に辿り着くと、古びた煉瓦造りの館の扉を軽く叩く。間もなく、重い扉がゆっくりと開いた。現れたのは、白髪を長く垂らした老人だった。老人はリィエンの顔を見ると、目を見開いた。
「……あなたは……もしかして……リィエン殿ではないですか?」
リィエンは少し驚きつつも、ゆるやかに頭を下げた。
「はい、リィエン・スィリナティアと申します。フェロルトさんでらっしゃいますか? ……私のことをご存知で?」
「ええ、私がディナス・フェロルトです。……若い頃、イルナス先生から、あなたのことをよく聞かされてました。銀灰の髪に翡翠色の瞳を持つあなたのことを」
「イルナス……カスティオが私のことを?」
「ええ、そうです。あなたの名を口にされるとき、先生はいつも懐かしそうで──そして、少しだけ寂しそうでもありました」
老人は目を細め、しばしリィエンを見つめたのち、静かに招き入れた。薄暗い室内には、古びた書架と巻物、分厚い書物が静かに積まれていた。小さな窓から差し込む陽光が埃を照らし、その粒子が静かに宙を舞っている。
「まさか、先生のお師匠様が見えられるとは思いもよりませなんだ……さあ、どうぞ」
老人はゆっくりと椅子に腰を下ろし、卓上の茶器に手を伸ばす。湯気が細く立ち上り、二人の間にわずかな温かさが満ちていく。リィエンも向かいに静かに腰を下ろした。
「突然の訪問、失礼いたします。カスティオのことを、どうしても知りたくて参りました」
「……ああ」
老人はしばし沈黙したのち、静かに目を閉じた。寂しさと怒りが交じる表情のまま、掌で茶碗をゆっくりと回し、慎重に言葉を選ぶ。
「──先生は、理想家でした。だが、その理想は……制度にとっては〝異物〟だったのです」
湯気が静かに揺れる。
「魔法を、選ばれた者だけの特権ではなく、民衆の幸福のために開くべきだ。そう考える者が、協会や軍部の中でどれほど少数だったか……」
リィエンはふと、茶器の湯気越しに揺れる老人の声に、胸の奥がざわつくのを感じた。
「旧来の感覚では、魔法は〝資格〟ある者のみが扱うもの。マナを多く纏う者こそが扱い、体制がそれを管理する。協会も、軍も、そして政府も……その秩序を前提に成り立っていた。先生の思想は、その構造を根底から崩しかねなかったのです」
「……もしかして、カスティオは……」
老人は一息つき、視線を落とす。
「表向きは、自死とされました。『研究に行き詰まり、精神的に追い詰められた』と。誰も異を唱えなかった。……綺麗に、そう処理されたんです。だが、私は違うと思っております。あれは──排除でした。体制による、静かな排除……」
リィエンは息を呑んだ。
「直接的な証拠はありません。ですが、亡くなった翌朝には研究室が封鎖され、資料は一掃され、協会では先生の名前が口にされることすらなくなった。それどころか、軍が協会上層部のポストを掌握するようになり……後はご存知の通り、突然の解散です」
静寂の中、静かに舞っている埃と、湯気が混ざり合っていた。
──魔法は、使えるのが当然。そう思っていた。
リィエンの中に、ふと小さな震えが走った。
エルフとして生まれた彼女にとって、詠唱やマナは空気のような存在だった。人間たちが「資格」や「制度」によって魔法を扱う構造は、どこか遠い世界の仕組みのように思えていた。
(……私は、知らなかったのではなく、〝知ろうとしてこなかった〟)
彼女の胸の奥に、ようやく気づいた責任の感覚が、じわりと染み込んでくる。
老人が、書架の奥から小箱を取り出す。
「あなたに、ご覧いただきたいものがあります」
中には一冊の古びた手帳が納められていた。
「これは……?」
「生前、先生から託されました。『私にもしものことがあれば、これを保管してほしい』と。中身は、先生の理論と思索の断片です」
リィエンは慎重に手帳を開いた。淡く色褪せたインクで記された無数の符号、古語の断片、びっしりと並ぶ注釈。その密度に、自然と背筋が伸びた。インクの匂いが古紙の湿り気と混じり、微かに鼻腔をくすぐる。
──これは、簡単には読み解けない。
「……こんなにも……」
「先生は、世界の本質に触れようとしていたと思います。言葉とは何か、マナとは何か。その根底にある理を見つめようとしたんでしょうな」
リィエンの胸に微かな震えが走った。これは自分が触れてきた魔法語の奥底、祖母が幼い自分に授けたあの詠唱とも繋がっている気がした。
「これまで、この存在を誰にも──?」
「ええ、誰にも話しておりません。あまりに危険だったんでね。けれど、あなたになら──託す意味があると思っています」
老人は声を潜めた。
「近年、先生の理論を基にした兵器研究が動き出しているという噂も耳にしました。先生は、そんな未来を望んではおらなんだ。私は……それが悔しいのです」
リィエンはゆっくりと頷いた。
「──私も、この理を正しく理解したいと思います。そして、彼の志を歪めたくはありません」
老人は手帳を布に包み、そっと手渡した。
「お持ちください。ただし、お気をつけなさい。あの影は、今もどこかで息を潜めているやもしれません」
リィエンは礼を述べ、居宅を後にした。
黄昏に染まる王都の街路を歩きながら、彼女は胸の奥で繰り返していた。道端の水溜りが夕空の色を映し、静寂が街に降りていた。
(言葉とは何か。契約とは何か──。カスティオは、何と向き合っていたのか……)
その問いが、今ようやく、彼女自身のものになろうとしていた。
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