第42話 城内の動乱

 ある日の夜、カーマ王国の王城は深い静寂に包まれていた。


 月明かりが石造りの城壁を銀色に照らす中、一つの影が音もなく城壁を滑り降りた。


 影の名はダゴン。ベルクス連邦の執政官オルベルクから依頼を受けた、梟という組織に所属する者である。


「……ふん、噂に聞くカーマ王国の王城とやらも、この程度か」


 ダゴンは嘲るように呟いた。侵入は驚くほど容易かった。物理的な警備は厳重だが、魔術的な結界はほとんど機能していない。


 長年の平和が、この国の牙をすっかり鈍らせてしまったらしい。


 彼の目的は、オルベルクが黒幕と断定した老宰相ゴレームの調査と、必要に応じた無力化。しかし、ダゴンにとって、依頼をただこなすだけというのは最も退屈な仕事のやり方だった。


(ただ殺すだけでは面白くない。せっかく忍び込んだのだ。この国の連中が、どれほどのものか試させてもらおう)


 彼の興味は、ゴレーム個人よりも、ザーマイン帝国を打ち破ったこの国の底力そのものに移っていた。


 特に、あのドラゴンを操ったというアルス王。そして、その周囲を固める者たちの実力。それをこの肌で感じてみたいという欲求が、彼の内側で燻っていた。


「異空からの触れざる者……くくっ試しに呼び出してみるか」


 ダゴンでさえ、おそらくは対処が困難な存在。それを呼び出すことに決めた。


 彼の口元が歪み、その体からどす黒い魔力が溢れ出す。魔力はまるで生き物のように地面を這い、城の石畳の隙間に染み込んでいった。



 宰相執務室。アラン・ヴェサリウスは、蝋燭の灯りを頼りに、膨大な書類の山と格闘していた。


 ゴレームが目覚めたとはいえ、宰相の職務がすぐに彼に戻るわけではない。むしろ、戦後処理で宰相としての仕事は多忙を極めていた。


(……だが、この充実感も、あとわずかか)


 アランはペンを置き、静かに目を閉じた。ゴレームが完全に復帰すれば、自分はこの宰相の座を降り、再び一介の宮廷魔法士に戻ることになる。


 一度手にした権力と、国を動かすという実感。それを手放すことへの惜しさを、アランは自覚していた。いや、惜しさだけではない。明確な不満があった。


(ゴレーム殿は確かに偉大な方だ。だが、そのやり方は古い。この激動の時代を乗り切るには、より柔軟で、より大胆な思考が必要だ。この私のような……)


 その自負が、彼の野心を静かに燃え上がらせていた。


 その時だった。


 アランの鋭敏な感覚が、城内に発生した二つの異質な気の流れを捉えた。


 一つは、東区画で発生した、これまでに感じたことのない種類の、禍々しく派手な魔力の奔流。もう一つは、それとは対照的に、西塔のゴレームの私室へと向かう、極限まで練り上げられた複数の微弱な殺気。


(……東区画に、未知の強力な魔力の奔流。そして西塔には練達の暗殺者の気配。同時多発だと?馬鹿な、この派手な魔力は陽動で、本命はゴレーム殿か!)


 侵入者の目的はゴレーム。その事実を理解した瞬間、アランの心臓が大きく脈打った。


 今すぐ駆けつければ、ゴレームを救うことは可能だろう。自分の実力をもってすれば、侵入者の正体が何であれ、撃退することは造作もない。


 だが、そうすればどうなる?


 ゴレームは生き残り、自分は彼に命の恩人として感謝されるだろう。そして、宰相の座を彼に返し、元の宮廷魔法士の地位に甘んじることになる。


 アランの脳裏に、二つの道がはっきりと示された。


 一つは、臣下として当然の義務を果たし、ゴレームを救う道。


 もう一つは――。


「衛兵隊長! こちらアラン! 東区画にて魔力の異常発生を確認! ただちに東区画へ向かえ!私が現場の指揮を執る!」


 アランは魔法による拡声機を使い、意図的に敵の狙いに気づかないふりをして賊の情報を、しかし切迫した声で叫んだ。


 一瞬の逡巡。しかし、その選択に、彼の心は一片の痛みも感じていなかった。


(これも国のためだ。より優れた指導者が、この国を導くべきなのだから)


 冷徹な自己正当化を終えたアランは、まるで悲劇の英雄のように、ゴレームとは逆方向の廊下を駆け出していった。



 その頃、城壁の警護という、最も退屈な夜勤任務についていた兵士がいた。


 フィンである。彼は物音一つしない夜の闇に怯え、今にも泣き出しそうだった。


 その時、彼の耳に、アラン宰相の緊急指令が響き渡った


「ひっ……!ま、魔力の異常!?東区画!」


 英雄に憧れるフィンの心に、恐怖と同時に、使命感が燃え上がった。


(僕も、行かなきゃ……!皆の役に立たないと……!)


 彼は槍を握りしめ、必死に走り出した。しかし、パニックと極度の方向音痴が災いし、彼が向かったのは東ではなく、正反対の西塔だった。



 東区画へと向かうアランは、何かの異変に気付き足を止める。すると廊下の影が不自然に蠢き、一体の存在が地面から姿を現していく。 


 それは、屈強な肉体を持つ人型の輪郭。しかし、その肩には禍々しい山羊の角が生え、背中からは蝙蝠のような皮膜の翼が突き出ている。


「ふむ……数千年ぶりの地上か」


 その異形な存在が完全に出現し、その人ならざる目をアランの方へと向けた瞬間だった。


 アランの全身を、経験したことのない凄まじいプレッシャーが襲った。それは物理的な圧力ではない。存在そのものが放つ、魂を直接圧し潰すかのような絶対的な威圧感。


(これは……なんだ……!?)


 アランの頭脳が、目の前の存在から放たれる魔力を瞬時に解析する。しかし、弾き出されたデータは彼の知識体系のどこにも当てはまらなかった。


 この世界のあらゆる生物、あらゆる魔法とも異なる、冷たく、冒涜的な法則で編み上げられた、絶対的な異物。


 彼の背筋を、初めて知る種類の悪寒が駆け上った。


「ほう……貴様か?我を呼び出したのは。ククク……随分と骨のある召喚主がいたものだ。良い、余興だ。この世界での最初の生贄は貴様にしてやろう」


 そいつは楽しげに言うと、その手に漆黒の炎を宿らせた。


(まずい)


 その漆黒の炎が宙に舞った瞬間、アランは本能的に身を低くした。炎は彼の頭上を掠め、後方の石壁を跡形もなく消し去る。


「ほう……反応は良い。だが、これはどうだ?」


 敵の手から、今度は無数の炎の矢が放たれた。アランは咄嗟に風の障壁を展開するが、敵の炎は魔法障壁を紙のように貫通し、彼の左肩を掠める。


「がっ――!?」


 わずかな掠り傷のはずなのに、アランの全身に激痛が駆け巡る。これは単なる物理的な炎ではない。存在そのものを侵食する、概念的な破壊力を持つ攻撃だった。


「くくく……この程度か?」


 相手は明らかに手加減している。アランを瞬殺することなど造作もないが、敢えて様子を見ているのだ。


(この化け物は……私を試している)


 アランは冷静さを取り戻し、状況を分析する。敵の実力は計り知れない。特に相手の魔法は此方の防御魔法を貫通する。かなり驚異的だ。


 だが、アランを以てすればやりようはいくらでもある。自分が本気を出しさえすれば、負けるはずはない。彼は己に裏付けされた自信からそう結論付ける。


 問題は別にあった。


(ここで本気の戦闘になれば、城が吹き飛ぶ)


 相手の放つ魔力の余波だけで、既に周囲の石壁に亀裂が走っている。この規模の存在と城内で戦えば、カーマ王国の王城は瓦礫の山と化すだろう。


「どうした?逃げるのか?つまらん」


 相手は挑発するように笑う。しかし、アランは挑発に乗らず、別の方法を模索していた。


(直接的な戦闘は不可能。ならば――)

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