第十一幕 実像に復活を

 それからは南雲の指示により、各自で自主練となった。

 一週間後、久しぶりに行われた稽古に、樹と彗の姿はなかった。不思議がる凪咲や奏に、南雲がなんとかはぐらかしているのを、松野は目の端に窺っていた。

 休憩時間、喫煙所に呼び出された松野は、南雲から事の顛末を聞かされた。

 闇カジノには数回行っただけで常習性が立証されず、単純賭博罪で罰金刑となる見込みだそうだ。初犯で情状酌量の余地があったのだろうと言って、南雲は息をついた。

「とにかく、話がついて良かった。樹と彗には、芝居で償うように言ったよ」

「そうですか」

「悪いが、晴に預かってもらってる口座から、払わなきゃいけなくなりそうだ」

「まあ、それは仕方ないですよ」

 そう答えると、南雲の口角が、柔らかに上がった。

「ありがとな、晴。いちばん巻き込まれたのは、記憶を失ったお前なのに」

「私は、芝居ができればそれでいいですから。ただ、あのままじゃ芝居を楽しむどころじゃなかったので、事故を起こしている犯人を探していたら、こんなことになっちゃいました。かえってすみません」

「いや、劇団の異変に気がつけなかった僕の落ち度だ。本当に、申し訳ない」

 南雲は深く頭を下げる。

「やめてください、座長。元はと言えば、私の日頃の行動に問題があったんです」

「え?」

「私の強すぎる好奇心と、なりふり構わない追求が、誤解を招いたんでしょう」

 この事件で、本当に巻き込まれている、罪のない人間は、俺――松野重幸、ただ一人だ。

「樹くんと彗ちゃんに、芝居で償うように言ったんでしょ? だったら、私にもチャンスをください」

「君は巻き込まれただけだ」

「関わったみんなの責任です。私も、普通の人間ならやらないことを平気でしてしまう、はぐれ者ですから」

 ちくしょう、なんで俺が代わりに謝ってるんだ。

 ゆっくりと顔を上げた南雲が、ほっとしたような表情をしたのが、余計に腹立たしかった。

「そう言ってくれるとありがたいよ……絶対に成功させよう! 全国公演への第一歩だ!」

「……もちろんです」

 しかし、今さらそんなことを言っている場合ではなく、松野は渋々そんな返事をした。

 不満をぶつける相手もいない。また晴を夢に呼び出して、怒鳴りつけてやるか。いや、あいつにゃ、ご褒美になっちまう……と考えたところで、ようやく思い出した。

 あの日以来、あれだけ自分の周りを飛び回っていた晴の魂は、全く姿を見せない。妙な静けさに、我に返る日々を繰り返していた。


 その翌日、樹と彗は劇団に戻ってきた。彗のことをひどく心配していた奏は、まるで妹を愛でるように、彼女に抱きついて頭を撫でくりまわす。樹の手には、カイルとルシアの衣装が抱えられていた。

 二人の犯した一件は、凪咲と奏には、これからも話さないつもりだ。これ以上劇団で混乱が起きないように、そして樹と彗が、劇団での居場所に悩まないようにという、南雲の配慮だった。

 その考えは、松野のシナリオを、より確かなものにしてくれた。

 秘密の共有は、絆を深めるいちばんの要素だ。南雲に許してもらえたことはもちろん、殺そうとしていた晴にまで許されたことは、二人にとって、もう勝手なことはできないと自覚するきっかけになったはずだ。晴が今後、彼らにとって都合の悪いことをしても、それを咎める術がなくなったということ。

 上演まで残り八日。だが、いつもの熱気はどこか薄れ、張り詰めた静寂が漂っていた。松野は舞台の端で台本を手にしながら、劇団員たちの様子を窺っていた。

「彗、風邪でも引いた?」

 奏が無邪気に尋ねるが、その声には微かに不安が滲んでいる。彗は小さく首を横に振るだけだった。

「衣装、似合ってるよ! 本当に、樹くんは手先が器用だねえ」

 白と淡い金色に彩られた、まるで風の流れのような、シルクに似たドレス。ウエストはコルセット風に細く絞られ、袖やスカートがふわりと広がる。しかし、彗は伏せた目を上げず、樹も答えることはなかった。

 稽古中も、彗の台詞にこれまでのような力強さはなくなっていた。まるで薄いガラス細工のように、触れれば砕けそうだ。

 面倒な奴め。

 そう吐き捨てたくなるのを、松野は何度もこらえていた。

 こんな奴はとっくに見捨ててやるのだが、いかんせん今の状況では、そうもいかない。このわだかまりを、嘘でも解消しないことには、再起から遠ざかってしまう。

「このカイルの影が、貴様の魂を飲み込む運命なのだ! 貴様の光が消えた時、民の心からその存在も消え失せる!」

 真っ黒いロングコート、裏地には深紫が覗く。大きく身体を動かし、コートをなびかせて台詞を放つと、まるで本当に、言葉によって魔術をかけているような気分になった。

 壮絶な戦いを繰り広げた終盤、怯んだカイルから声を取り戻したルシアが叫ぶ。

「エリナの灯す光が……共にこの闇を……切り裂く!」

 しかし、返ってきたルシアの台詞は、空虚で不甲斐なかった。

 その瞬間、彼は松野重幸に戻っていた。

「もう一度――」と言いかけた南雲の声を遮り、松野は即興の台詞を放った。

「どうした、ルシア? そんな容易に、我が闇に飲まれてしまうか?」

 彗がはっと顔を上げる。その目には、驚きと動揺が混じっていた。

 松野は一歩踏み出し、声を低くする。

「過去の過ちが貴様を縛るか。それは好都合だ。いつまでもそこで一人、何も守れぬ己の弱さに、打ちひしがれているがいいさ」

 その刹那、彗の目に一瞬、鋭い光が戻った。初めて彼女と会った時、ずっとライバルだと言い放たれたあの時と、同じ眼差し。

「エリナの灯す光が……我が声なき詩の翼!」

 彼女の決意が、舞台を切り裂いた。

「絆の強さを軽んじるお前には、決して理解できないであろう! だからこそ、我らの詩の力は、お前には防げまい!」

 ルシアのドレスが揺れる。カイルもまた、コートをはためかせ、身構えた。

「そうでなくてはな、ルシア!」

「共にこの闇を切り裂き、希望を紡ごうぞ! エリナ!」

 舞台は一気に熱を持ち、それを発散させるように、松野と彗の芝居は迫力を増した。

 奏の操る音響も、凪咲の指揮する照明も、物語に溶け込んでいる。まるで、彼女たちも同じ舞台に立って芝居をしているような感覚さえした。

 

 稽古が終わるとすぐに、奏が彗に抱きついて、愛娘と言わんばかりに褒めちぎっていた。それを横目に、松野は舞台袖に入り、パイプ椅子に腰を下ろす。

「晴……」

 いつの間にか、そばには凪咲の姿があった。

「さっきの芝居……」

「座長、怒ってた?」

「いや……褒めてたよ。いいフォローだったって」

「なら良かった」

 すると、舞台袖を静寂が包み込んだ。ふと凪咲に目をやるが、彼女は呆然と、その場に突っ立っている。

「どうかした?」

「いや、別に……なんか、すごすぎて」

 言葉にできないのか、凪咲はそんな曖昧な返答をする。畏怖の念さえ感じられる彼女の眼差しに、松野は満足げに眼鏡を押し上げた。

「そうかな? 勢いでやったから、あんまり覚えてないや」

 すると、奏が舞台袖に駆け込んできた。

「晴ちゃん、さっきのアドリブ、すごかったよ」

「恐縮です」

「ありがとね」

「え?」

「彗、なんだか芝居に身が入ってないみたいだったから。晴ちゃんの、カイルの言葉で、目が覚めたんだと思う」

「それはそれは、何よりです」

 心からの言葉だった。

 この公演が成功すれば、全盛期の俺が戻ってくる。客が少ないとしても、昔に比べれば口コミの威力は計り知れないはず。世間は、無名の若者の才能を取り上げるのが大好きだ。取り上げられやすいが、話題に上がらなくなるのもあっという間。しかし俺の実力を持ってすれば、この劇団が日の目を見る日は近い。

 全国の劇場が、ドラマが、映画が、再び俺を呼ぶ。松野重幸は死なない!

「晴ちゃん、なんだか楽しそう」

 奏がにこやかに言った。

「やっぱり、お芝居、楽しい?」

「そりゃあ、もちろん」

「良かったあ。最近頑張りすぎて、疲れちゃってるのかなって思ってたから」

「そんなふうに見えてたんですか?」

「だって、急に白髪が増えてきたじゃない?」

「……え?」

「なんだか、おじいちゃんみたあい」

「ちょっと! 奏さん!」

 凪咲に突っ込まれると、奏はきょとんとして、首を傾げてみせた。


 松野は一人楽屋に戻り、鏡の前に立った。眼鏡を外し、その向こう側の晴を見つめる。

 確かに最近、所々白髪が覗いていることには気がついていた。ショートだった髪も伸びてきたから、公演直前に美容院に行って、ついでに染めればいいかと後回しにしていたのだ。

 生前の動きを思い出すように、前髪を掻き上げてみる。その時、彼は息を呑んで、目を見開いた。

 明らかに白髪が増えている。今朝見た時までは、茶髪に二、三本、白髪が見えるくらいだった。それが今は、根本の三分の一ほどが白く染まり、全体に散らばるように生えている。

 指に絡む髪も、柔らかく軽い感触ではない。固く変化し、毛先も鋭く尖っている。

 しかし、松野の動きを止めたのは、髪の変化だけではなかった。

 丸く子供のような目は、鋭く吊り上がりつつある。口元は柔和な笑顔を忘れ、引き締まった線に変わっていた。

「なんだか、おじいちゃんみたあい」

 奏の純粋な言葉が蘇る。

「まるで、晴ちゃんの好きだった、シゲさんみたいだね」

 鏡の中の晴の姿が、薄い膜のように剥がれかけている。そしてその下から、松野の生前の姿が浮かび上がってきているように見えた。

 すると、不意に空気が重くなったのを感じた。鏡から目を外して振り返る。楽屋の中央に置かれたローテーブルに肘をついて、こちらを眺める死神の姿があった。

「お前か……あいつはどうした? 最近見かけないが?」

 何気なく尋ねると、死神は静かに答える。

「彼女は、無理な力を使ったために、現世で姿を保てなくなったのです」

「無理な力?」

「魂の状態で現世に留まることの危険性を、あれだけお話ししたのに、晴様はちっとも分かっておられませんでした。松野様の前に出ると、自分の力を見誤ってしまうんでしょうなあ。最後には、あんな重い緞帳を動かした。しばらくは、養生が必要でございます」

「ふうん」

「大体、彼女はワタクシのお茶汲みなんですよ? 松野様にばっかり使わせるのは、ずるいじゃないですか」

「知るか」

 死神の丁寧な口調が耳障りで、松野は乱暴に吐き捨てる。

「じゃあ、もう俺の目の前には現れないということか?」

「おや、寂しいんですか?」

「馬鹿言え。清々してらあ」

 楽屋を出ようと、ショルダーバッグを肩にかけた。

「それで? お前の用はなんだ? 手短にな、俺も忙しいんだ」

「特に。松野様のご様子を見に来ただけです」

「相変わらず観客気取りか。気味の悪い」

「この特等席を存分に楽しまなくては、晴様と契約した意味がありません」

「勝手にしろ。ただし、俺の邪魔だけはするなよ」

「もちろんですとも。それにしても、ようやく、魂が身体に染み込んでまいりましたなあ」

 死神の言い草に、思わず眉をひそめた。訝しげな眼差しを向ける松野に動じることなく、死神は、まるで美しい彫刻を堪能するかのような、うっとりとした様子で、細めた目を向けていた。

「お気づきでしょう? 内に宿る松野重幸の魂が、実態として、晴様の身体に反映され始めている」

「なるほど? 俺のための舞台が、整い始めているということだな」

 この身体に、以前の感覚が戻れば、もうこっちのもんだ。

「楽しみにしておりますよ。名優、松野重幸の再来を」

 死神は、ゆったりと口角を上げてそう言うと、徐に立ち上がり、コートの裾に手をかけた。

「一つ聞くが」

 松野の声に、死神は動きを止め、彼を見やる。

「なんでしょう?」

「魂が染み込めば、この身体は、生前の俺とそっくりになるということか?」

「完全に同じにはなりません、ベースは晴様の身体ですからな。声や身長までもが変わることはありませんが、髪の色や顔つきなんかは、時を経るにつれ似てきますでしょう。あとは、松野様が持っていた疾病や、生前についた傷も、反映されるでしょうな」

 そう答えると、死神はコートを翻し、姿を消した。静寂が戻った楽屋で、松野は立ち尽くす。だがその表情は、確信を持った強い笑みに変わっていた。

 俺のための舞台が整いつつある。だが、まだ整えなければならないところがあるな。


 陽が落ち、劇団員たちはそれぞれ帰路につく。しかし、舞台には灯りがついたままだった。取り残された舞台セットの前に立ち尽くす、大きな背中。

「みゃう」

 その声に、彼ははっとして顔を上げた。声のした舞台袖を振り返る。

「シュテルン――!?」

 しかし、舞台袖から現れたのは、彼の期待していた柔らかな影ではなかった。

「結構似てた?」

 猫耳のフードで顔を隠しながら、軽やかな足音を舞台に響かせる、彼にとっては忌々しい存在。フードを払った松野は、目の前の樹の怯えた表情に、悪戯っぽい笑みを見せた。

「……なんの用だ」

「そんな顔しないでよ、樹くん」

「俺を揺する気か?」

「それを借金のカタにするって? 今さらそんなことするはずないじゃない。私はとーっくに、逃げおおせたのよ」

 樹の訝しむ表情は変わらない。そのまま、皮膚が破れて血があふれ出してくるのではないかというくらい、眉間に皺を寄せている。

「樹くんだけ帰ろうとしないから、心配になったんだ」

「一人にしてくれないか」

「やーだよ」

 樹は長いため息を吐き出した。

 そして、自分を試すように見つめる松野の視線から逃げるように、彼は顔を上げた。

「……灯台は、真実の道を照らし出す。カイルは、エリナの光に焼かれて死ぬ」

 その視線の先は、今はなき灯台のセットの面影を追っている。

「お前が灯台から落ちた時、バチが当たったんだと思った。南雲さんを、光芒座を裏切った報いだと思った」

 樹の目が再び沈む。目尻の端で、ちらりと松野を見やる。

「だからお前が光芒座に戻って来て、俺は取り憑かれたんだ。俺が決着をつけなきゃ、光芒座を守らなきゃって……俺はどうかしてた」

 どうかしてるな、それだけで「殺すしかない」という選択肢しか浮かばないのなら。

「許されないことだとは分かってる。この公演が終わったら、俺は光芒座を去る。それで満足だろう」

 やっぱりな。どうせ極端なことを考えているんだろうと思ったが、案の定だ。

 そう言いかけて、松野は小さく咳払いをした。

「それで、どこへ行くつもり?」

「どこって……」

「死ぬの?」

 樹は黙り込み、また下を向いた。図星のようだ。

「そんなのずるいよ」

 飛び出した言葉に、樹の大きな身体が一瞬跳ねた。

「誰かがいなくなれば解決することなんてないよ」

「仲間を傷つけた俺に、舞台を作る資格はない」

 その通りだ。だが、

「舞台は作り物だよ」

「……え?」

「舞台に広がるのは、いつも虚構。現実より一段上にある。ということは、舞台に上がる私たちも、その間は存在が嘘なんだよ」

「何が言いたいんだ」

「本当に舞台に立つ資格がないのは、現実を舞台の上まで引きずってくる人間だ」

 なんとか晴の振る舞いを意識していたが、この台詞を放った瞬間、彼は俳優・松野重幸としてその場に立っていた。

「舞台の上で真実を語るつもりなら失せろ。観客は、虚構を楽しむために来てるんだ。そんな舞台をめちゃくちゃにする気なら、観客も殴り込んでくるぞ」

「……だから、俺には」

 樹は顔を上げずに呟く。

 いかんな、俺の悪い癖が出た。

 松野は気を取り直し、細めていた目を真ん丸に見開いた。

「樹くんがいなくなって、みんな喜ぶかな? ほっとするかな?」

「光芒座の癌にはなりたくないんだ」

「逃げることは、家族である南雲さんを裏切る行為ではないの?」

 樹がひゅっと息を呑んだ音が、かすかに聞こえた。

「南雲さんだけじゃないよ。凪咲も、奏さんも、彗ちゃんも。樹くんの居場所が光芒座であるのと同じように、みんなの拠り所も樹くんなんじゃないかな?」

 彼は顔を伏せ、黙ったままだ。

 松野は、自分一人で樹を説得できるとは思っていなかった。しかし、シナリオと伏線、そしてキャスティングは、しっかり準備できている。

 若造にとって、舞台の上で現実と虚構の境界線を曖昧にするのは至難の業だろうが、俺には五十年の経験と実力がある。

 ここで、舞台の上が虚構であるという前提をぶち壊し、現実の彼が信じる絆を突きつければ……。

「ミャウ」

 樹がはっと顔を上げた。松野の背後の舞台袖から響いた鳴き声。二人だけの舞台に響く小さな足音が、空気を震わせる。

「シュテルン……」

 身体のバランスを取るようにゆっくりと尻尾を揺らしながら、シュテルンは静かに樹に歩み寄った。彼の足元まで来ると、その足首に身体をこすりつけた。

「……俺が一人でいると、お前はいつも来てくれたよな」

 樹もしゃがみ込んで、その背中を優しく撫でた。シュテルンはごろごろ喉を鳴らし、姿勢を低くする。

 南雲に飼われているというシュテルン。そして樹は、長く南雲と同居している。シュテルンと樹の絆の強さは、想像に難くない。南雲に断って連れてきたが、予想以上の存在だった。

 光芒座でいちばんの芝居ができるのが、まさか猫とは思わなかった。

「……悪いな、晴」

 シュテルンに目を落としたまま、樹は言った。

「死んで償うなんて、お前がいちばん嫌うことだよな。嫌なこと、思い出させちまった……」

「記憶は戻ってないよ。なんかよく分かんないけど、なんとなく嫌なんだ」

 松野はそう言って、人差し指の甲で眼鏡のブリッジを押し上げる。そして、夢の中での晴の振る舞いを思い出しながら、大手を振って、頬が痛くなるほどの笑みを作って叫んだ。

「私は、舞台に立ちたいだけ! 大好きな芝居を、大好きな家族とやりたいだけ!」

 樹はようやく顔を上げる。その瞳に、もう淀みはなかった。

 これ以上、面倒ごとを増やしたくない。樹が俺のための舞台を作ってくれれば、それでいい。


 樹がシュテルンを連れて帰った後、松野は一人、薄暗い楽屋に戻ってきていた。置き去りにしていたショルダーバックを抱え、踵を返す。ふと顔を上げると、鏡の中の晴と目が合った。

 その時、目の前の景色が、松野の瞳が最後に映し出した光景と一瞬重なった。

 若い劇団員が挨拶に来て、楽屋を去った後――あの時もこうして、同じように鏡の前に立った。若い俳優にも引けを取らない存在感はまだあると、細めた眼差し。

 煙草を吸いに行こうと、楽屋を後にする。次の瞬間、目の前が真っ暗になった。

 背筋に走る痺れ、肩が震え、指先が硬直する。そしてその刹那、無力感に押し潰される恐怖。その感覚、感情までもが、鮮明に蘇ったのだ。

「――はあっ!」

 夢から飛び起きるように、松野は声を上げて飛び上がった。身体がふらついて、思わず鏡に手をつく。顔を上げると、額に冷や汗を滲ませる晴と目が合った。

 呼吸を整えていると、また違和感に気がついた。身体が上下する度に、背中の左下、腰の辺りで、微かな疼きを覚えたのだ。咄嗟に触ってみるが、傷のようなものの感触はない。

 服をめくって、鏡を背に首を捻る。押さえた手の下から現れたのは、二つの小さな赤黒い痣だった。黒子にも火傷にも見えたが、その円形の痕は、三センチほどの間を空けて並んでいた。

「なんだ、これは……?」

 その時、また再び脳裏をよぎる記憶。それは、死神の言葉――。

「髪の色や顔つきなんかは、時を経るにつれ似てきますでしょう。あとは、松野様が持っていた疾病や、生前についた傷も、反映されるでしょうな」

「生前についた傷……」

 こんな所を怪我した覚えはない。しかも、小さな点が二つ。普通の傷じゃない。

 もう一度、鏡を振り返る。ふと蘇った、死ぬ直前の光景。

 背筋に走った強烈な痺れ、視界が暗転する瞬間、老いた鼓膜を微かに揺らした奇妙な音。

 それは、ジジッ、という閃光にも似た――。

 まさか、俺が死んだのは……心臓発作じゃないのか?


 その夜、部屋に戻った松野は、晴のパソコンを開き、自身の死についての記事を探した。

 愛していた推しのことだ。彼女のパソコンになら、当時の記録や彼女なりの調査結果が多く残っているはず。

 しかし、そんな松野の思惑は的を外していた。彼女のパソコンには、松野の死についての調査記録はおろか、記事の閲覧記録さえ残っていなかったのだ。

 仕方なく、ニュース記事を片っ端から調べ始める。

『松野重幸 急死』『心臓発作で逝去』『ゲスト出演初日 楽屋前で』

 あらゆるサイトを漁ったが、どれも同じような見出しが並び、詳細が曖昧だ。目撃情報も死因も、具体性のない記述ばかり。

「こんな薄っぺらい記事で……」

 画面をスクロールしていると、懐かしい写真が目に飛び込んできた。それは、松野が葵屋敷に所属していた頃、同じ劇団員だった内村と肩を組んで撮った、若き日の写真だ。

『俳優の内村崇さんは、葵屋敷時代からの親友で、お互いが俳優として成功してからも、二人の関係は深く続いていました。内村さんは、突然の親友の死に目を伏せながら「彼の才能は唯一無二だった。非常に残念でならない」とコメントしています。』

 松野にとって、内村は唯一の友と言っても過言ではなかった。彼は、レギュラー出演や主演作はないにしろ、穏やかな性格が評され、バイプレイヤーとしての才を発揮する俳優だ。舞台やイベントの際にはチケットを送り合っていたが、お互いの時間がなかなか合わず、今では一年に一回会えるかどうか、という関係になっていた。

「お前とも、疎遠になっちまってたのか……」

 記事は、松野重幸が世間からどれだけの関心を得られていたかの証明に思えた。

 自分を覚えていて、死を悼む人なんていなかったのかもしれない。内村のコメントだってありきたりだ。記事の向こう側にいるライターの「有名人が死んだからとりあえず報じておこう」という魂胆が透けて見えるようだった。

「この程度だったのか、俺の人生は……」

 ――いや、違う。誰かが俺を心臓発作に見せかけて殺したんだとしたら、そいつの動機はきっと、俺の名声への嫉妬に違いない。

 キーボードに乗る小さな手と細い指が目に入り、彼は思う。

 そうだ。俺にだってファンはいた。現にこの小娘がそうじゃないか。だから今、俺はここにいるんだ。

 部屋の中を見回すが、場違いな青い光は見当たらない。

「つくづく使えない奴め。今こそ、俺の存在価値を証明する時だろうが……」

 それからも、パソコン内のファイルや、部屋の中に散乱するノートやアルバムを引っ掻き回したが、松野の死に関する情報はどこにもなかった。

 推しの死という現実を認めたくなかったから? それにしたって、何一つないなんてことあるか?

「お前なら、俺のこんなあっけない死に方、許さないんじゃないのか?」

 部屋を見渡し、そう問いかけたが、その声は静かに部屋に溶けていくだけだ。

 返ってこない答えを探すように、松野は机の引き出しから、夢ノートを取り出し、ページをめくるのだった。


 稽古は佳境を迎えていた。松野の芝居は迫力を維持しつつも、頭の中では常に死亡記事がぐるぐると回っている。台詞を飛ばし、動きが鈍り、不自然な余白が現れるようになった。

「晴、大丈夫か?」

 最初から最後まで、南雲のカットが入らない通し稽古はできなくなった。

「すみません……」

「よし、十五分だけ休憩にしよう」

 公演を目前にスランプに陥ったのだと、劇団員は気遣うように、松野に声をかけてくることはなかった。しかし、休憩をもらって楽屋で一人にさせてもらっても、彼はスマホでつい死亡記事を見返してしまい、落ち着けるはずもない。

 長いため息と共に俯き、テーブルに伏せた時、ノックの音が響いた。ドアから顔を覗かせるのは、彗だった。

「晴さん……あの、一緒にいてもいいですか?」

「……どうぞ」

 彗は小さく会釈をしてから、静かにドアを閉めて、松野の向かい側に正座した。

「その……この間の件は、本当にすみませんでした」

「また掘り返すの? もういいよ」

「でも……晴さんが何か責任を感じてるなら」

「そうじゃない」

「本当ですか?」

「そんなことを確認しにきたの? 彗のせいじゃないって、言ってもらいたいんだ?」

 思わずトゲついた言葉を放つと、楽屋はしんと静まり返った。目の前の彗が、潤む目を伏せ、口をつぐむ。

 面倒だな。舌打ちしかけたのをなんとかこらえて、松野はなるべく優しく言った。

「……ごめん、今落ち着かないんだ」

「私、日頃から晴さんに助けられてたのに、裏切るようなことを」

「もういいって。劇団のためなら仕方ない」

「でも、晴さんを見捨てたかったわけじゃないんです!」

「しつこい」

「私、前は別の劇団にいたんです。その時、嫉妬から大切な人を陥れるようなことをして……でも、そんなことをして得るものに、なんの価値もないって気がついたんです」

「今度は身の上話か? 聞いてないからな」

「だから今度は、劇団を支える役者になるって決めたんです。自分のためじゃなくて、劇団のために芝居をする役者に」

 彗は涙を浮かべつつ、その目は強い光を得て、松野を見つめていた。松野は頬杖をついて、「ふうん」と口を鳴らしてから言った。

「で、今回の件は、そんなせっかくの決意も誤って使ってしまった、と?」

「そ、そんなつもりじゃ……」

「冗談だよ」

 松野はそう言うと、両手を上げて大きく伸びをした。

「もう分かったから、一人にしてくれるかな」

「ごめんなさい……でも、この話をしたくて来たんじゃないんです」

「じゃあ手短にお願いできる?」

「晴さん……もしかして、シゲさんの件をまた調べ始めてるんですか?」

 その言葉にぎょっとして、松野は思わず彗を凝視した。その表情に、彗は質問への肯定だと気がついたように続ける。

「すみません、晴さんが携帯をいじってる時、たまたま見ちゃって……また井高さんのところに行っちゃうんじゃないかって」

「ちょっと待って。また・・? 私は、シゲさんの死について調べてたの?」

「あ、そっか、記憶が……」

「その、井高って?」

「……もう、行っちゃダメですよ?」

「焦らすんじゃない!」

 痺れを切らして飛び出した怒声に、彗はびくっと肩を震わせる。それから、上目遣いに松野を見て、諦めたように呟いた。

「劇団・残響の主宰です」

 その時、ようやく松野の中で記憶が結びついた。

 井高周平――あの時、楽屋に挨拶をしに来た若者。そして、松野のゲスト出演を直接依頼してきた人物だ。

「死んだ時の状況を聞くために、井高に会いに行ったのか?」

「だと思います。その後、座長にめちゃくちゃ怒られてたので……」

 彗の口からまた唐突に飛び出した情報に、松野は顔をしかめた。

「どういうことだ? なんで座長に怒られる?」

「井高さんは、二年前まで光芒座の劇団員だったんです。座長と考えが合わなくなって抜けた後、残響を立ち上げました」

 松野は、指を顎に添えてしばらく黙ってから、尋ねた。

「……彗」

「は、はい」

「私が資金を横領しているとデマを流したのは、井高か?」

 再び、彗の身体が跳ねる。それが問いへの返答だと、松野は捉えた。目が合うと、彼女は身体を萎ませ、力なく頷く。

「樹さんは、井高さんを裏切り者だと思っているので、出金記録を見せられても、最初は信じませんでした。でも、座長が晴さんに資金運用の相談をしているのを、たまたま見てしまって、それで……」

 なるほど、あの時「見当がついている」と南雲が言ったのは、そういうことだったのか。

「あの……勝手だとは分かっているんですが、このことは座長には秘密にしてくれませんか? 座長は、もう気づいてるかもしれないけど、知らないふりしてくれているみたいですし……。それに、今、残響とトラブったら、また井高さんが何をしてくるか……」

 松野は目を上げて、それからにこりと微笑んだ。

「今さら何言ってるの。心配しないで」

「で、でも……」

「言ったでしょ。犯人を晒し上げるつもりはない。それと、シゲさんのことはもう調べないよ。私もいい加減、現実を受け入れなきゃ」

「……晴さんの芝居、なんだか、シゲさんに似てきているような気がするんです」

「そう、意識しすぎてるんだよ。だから、シゲさんの死を思い出しちゃって、調べたくなっちゃったんだ」

「だけど、私は今の晴さんの芝居も好きです! ルシアとして、立ち向かう気持ちが湧いてくるし!」

 慌てた様子で瞳孔を揺らす彗を宥めるように、松野はにこにこ目を細めて、「ありがとう」と言った。

「でも、私にしかできない芝居も研究しなくちゃ。シゲさんを思い出すことで、その焦りを誤魔化してたんだよ」

「晴さん……」

 松野は、眼鏡を人差し指の甲で押し上げて言った。

「ちょっと、休憩しようかな」

「え?」

 松野はその日の稽古終わり、南雲に活動休止の期間をもらえないか相談した。当然、南雲はすぐには頷かなかったが、「スランプで」「自分の芝居としっかり向き合いたい」と言うと、これまでのつまずきを思い出したのか、「三日だけ休んでいい」と許可をもらうことができた。

 劇場からの帰り道、松野は、これから対峙する新たな謎に、言い表せない闇を感じていた。しかしその一方で、この状況を楽しもうとしている自分もいることに気がついていた。

 南雲や彗の前での俺の演技は、なんらかの賞を受賞できるほどに素晴らしい。若者の葛藤を上手く演じられる老俳優なんて、過去に存在したか? この素晴らしさを共有できる相手がいないのが、あまりに惜しい。

 これでなんとか、俺の死の調査に専念できる。死の原因を探るのはもちろんだが……彗の話を聞いて、不可解なことが一つ増えた。

 晴が俺の死について調べていたことは、光芒座の人間はみな知っている。しかし、その調査記録はどこにもない。もしかすると……俺の死を調べられると不都合な人間が、劇団の中にいるのではないか?

「晴っ!」

 赤信号を前に立ち止まった時、鋭い足音と叫び声が背中を刺した。

 振り返ると、息を切らしながらこちらを睨みつけているのは、凪咲だった。

「何考えてるの……! 本番まであと何日か、分かんないの!?」

「ちょうど一週間だな」

 松野はあっけらかんとして答える。

「この舞台を……めちゃくちゃにするつもり?」

「馬鹿言うな、逆だよ」

 こんな状態で、公演を成功させることはできない。全部暴いて綺麗さっぱりの舞台でなければ、俺の再起に相応しくない。

「私を誰だと思ってる? 何も心配はいらない。誰も想像できないような舞台にしてやるさ」

 口元を吊り上げ、頬に深い笑窪を刻む。

 信号機の音が鳴り、踵を返して歩き出す。薄汚れたスニーカーが踏みしめる横断歩道のラインの一つ一つが、再起への階段のように思えた。

 活動休止をわざわざ宣言したのには、実はもう一つの策略があった。

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