第九幕 狙う者に狙いを

 翌日も朝からの稽古だった。夕方になると、アルバイトを終えた樹と彗も合流し、通し稽古が始まる。

「南雲さん、遅くなりました」

「大丈夫だよ、お疲れ様。彗を迎えに行ってくれたんだろ?」

「いつもすみません」

 と、彗が樹に小さく頭を下げると、樹は軽く片手を上げて返した。

「差し入れ買ってきたので、楽屋に置いておきました」

「いつも悪いな」

「それと、少ないですが、バイト代も入ったので。南雲さんの口座に振り込んでおきます」

「あれ、もう給料日だったか?」

「ええ、まあ」

「そうか。あんまり無理しないでくれよ」

 客席で台本を読んでいた松野は、そのやりとりを耳にしていた。隣に座る凪咲に、こそっと聞いてみる。

「樹くんは、座長に借金してるの?」

「ち、違う違う! 樹くんは、バイト代の一部を劇団の資金にしてくれてるの」

 なるほど、それが樹の南雲に対する恩返しの一つなのか。

「二人は、同じバイト先?」

「ううん、樹くんは居酒屋で、彗ちゃんは駅前のカフェだよ」

「ふうん……」


『影を灯す者』の物語は劇団員の身体に染み込まれ、役者のみならず、照明も音響も舞台装置も、その動きは確かなものになっていった。

 終盤、ルシアとカイルの最終決戦のシーン。二人は、それまでの物語の荒波を乗り越え、お互いが額に汗を光らせ、激しい呼吸に肩を震わせていた。

「何度も言っただろう! ルシア!」

 カイルは咆哮し、燃えるような赤い照明が彼を包み込む。

「声なきお前に、守れるものはない! 王国の民はおろか、目の前のエリナ、たった一人もな!」

 カイルが高く手のひらを掲げた、そのときだった。


 ばちん! という音が空気を切り裂いた直後、目の前が真っ暗になった。

「なんだ!?」

 南雲の叫びがこだまし、松野ははっと我に返った。反射的に首をすくめ、身を屈める。

「スマホ……しまった、楽屋か」

 暗闇の中、心臓が跳ね上がり、耳に残るのは自分の荒い息だけ。視界が黒に塗りつぶされる。

「な、何!? 彗、大丈夫!?」

 奏の震える声が遠くに聞こえる。

「凪咲! 明かりをつけろ!」

 南雲の命令が飛ぶが、返事はない。

 一刻も早く暗闇に慣れようと、自分を包み込む漆黒の帳に目を凝らす。視界の端で、晴の魂が青白く瞬き、右往左往しているのが見えた。

 その時だった。

 頭上から、低く唸るような、金属の軋みが聞こえてきた。その不協和音は舞台を包み、松野の背筋に冷たいものが走る。

「おい――!」

 南雲の言葉を掻き消すように、軋みは一気に加速した。次の瞬間、耳をつんざく鋭い音が炸裂し、暗闇の中で巨大な影が揺らぐのが見えた。

「舞台から降りろ――!」

 南雲の怒号が響き渡った刹那、天井から重々しい衝撃音が響いたかと思うと、吊られていた照明器具が、とてつもないスピードで舞台に叩きつけられた。木っ端微塵に砕ける音は激しく床を揺らし、後には息が詰まるほどの静寂が訪れた。


 張り詰めた静けさの中、劇場の照明はゆっくりと光を取り戻していった。南雲と奏は客席を飛び出し、舞台に駆け寄った。

 舞台に落下した照明器具は、怪物の死骸のように横たわっている。彗は舞台袖に後ずさるようにして、腰を抜かしていた。そんな彼女の肩を、樹が抱いている。

「彗! 大丈夫!?」

「奏さん……私は、樹さんが助けてくれて……で、でも、は、晴さんが……」

 松野は照明器具の残骸のそばに、頭を抱えてうずくまっていた。

「晴! しっかりしろ!」

 駆け寄ってきた南雲に身体を起こされ、顔を上げると、思わずほっとして表情が緩んだ。

「怪我はないか!? 痛むところは!?」

「いや……間一髪避けられたので……」

 照明ブースから飛び出してきた凪咲も駆け込んできた。

「晴! 大丈夫!?」

 彼女は松野と目が合うや否や、涙を滲ませ抱きついてきた。

「ごめん、ごめん……あたし、晴を助けられなかった! なんでかいきなり消えちゃって、どういじっても照明が戻らなくて、パニックで……!」

「ああ、大丈夫だよ……」

 凪咲は遂に泣き声を上げる。泣きたいのはこっちなんだけどな……と言いたくなるのをこらえ、ふと、薄明かりに照らされた客席を見やった。整然と並んだ席の隙間から、萎んだ風船のように床に横たわる晴の魂が見えた。

 照明器具が落ちる直前、松野の背中に体当たりし、落下の軌道からはじき飛ばしたのだ。その拍子に、彼女はゴムボールのように跳ねながら、客席のほうへ転がっていったのだった。


 この事故は警察に相談することとなり、その日は劇場スタッフを交えた事情聴取で終わった。

 他に気になったことはないかと聞かれたが、階段や工具棚の件は話さなかった。犯人が本当に晴を狙っているのなら、せめて劇場の中で狙ってもらわないと、捕まえるのが困難になってしまう。余計なことを喋ったことを引き金に、劇場の外でも狙われるようになってはとんでもない。

 楽屋に戻り、ショルダーバッグを抱えた時だった。少し開いたファスナーの隙間から、じんわりと輝く青い光が見えた。

 ぎょっとしてファスナーを開くと、案の定、晴の魂がバッグに潜り込んでいた。

「おいこら! 出ろ! 気色悪い!」

 松野が掴みかかろうとすると、その手を避けて、彼女はふわりとバッグから抜け出た。「ばれちゃったかあ」と言わんばかりに、楽屋の中を飛び回る。

「今回ばかりは、せっかく褒めてやろうと思ったのにな」

 と言うと、晴の魂はぴょんっと飛び上がり、松野に近づく。

「大した期待はしていなかったが、流石、身体を張ったことは得意なんだな」

 ファスナーを閉じようとした時、中に入っていたあるものに気がつく。松野はバッグに手を入れて、それを取り出した。

 それは、よく休憩時間に劇団員同士で遊んでいるトランプだった。

「お前か? 入れたの」

 振り返ると、晴の魂はくすくす笑うように揺らめくだけ。呆れてため息をつき、トランプを机の上に置こうとした。ところが次の瞬間、晴の魂が飛びかかってきたのだ。

「うわっ!? なんだ!」

 トランプをバッグの中に戻せと言うように、晴の魂はその身体を、松野の手にぐいぐいと押し付ける。その冷たさに、ぞわっと鳥肌が立って、松野はトランプを持ったまま手を振り上げた。

「分かった分かった! 持って帰ればいいのか!?」

 すると、彼女は頷くように、浮かぶ身体を上下させる。

 こいつ……もしや何かに気がついたのか? もしかして、このトランプが何かの……?

「帰るぞ」

 そう言って、踵を返す。

「作戦会議は、今晩の夢の中だ」


 その夜、ベッドに横になっていた松野が目を覚ますと、部屋は薄霧に包まれていた。ローテーブルを前に、晴が腰を下ろしている。

「お待ちしてました、シゲさん」

 にこにこする彼女の前で、ケースから出されたトランプの束は、小さな塔を作っていた。その隣には、7のカードが四枚、縦に並べられていた。

 晴の向かいに座ると、彼女はトランプの束を手に取って、松野と自分の前に交互に配り始めた。

「しかし面倒だな。お前と話すために、わざわざ夢の中に来なくちゃならんとは」

「あれえ? 私と話したくなってんじゃん?」

「この件が解決したら、お前が二度と現世に戻ってこないよう、死神に頼むつもりだ」

「えー? じゃあ、協力するのやめようかなあ」

「なんだと!」

「ウソウソ」

 晴の手から、トランプの束がなくなる。彼女は自分の前の手札を持ち上げて広げ、その背を松野に見せつけた。

「さ! やりましょ!」

「は?」

「見りゃ分かるでしょう? 七並べ!」

「遊びに来てるんじゃないんだぞ!」

「いいじゃないですかあ。光芒座に入ったら、まずはこうして仲を深めるんですよ」

「それはもうやった!」

「私とやってないじゃないですかあ」

「ふざけやがって……!」

 眉間に痛みを感じるほど顔をしかめて、ぎろりと晴を睨みつけたが、全く効果がないようだった。彼女は満面の笑みで、カードの束を掲げたままだ。松野は大きなため息をついて、配られたカードの束を乱暴に取り上げた。

「じゃー、私から行きますねー」

 と、晴は早速スペードの6を置く。松野もさっさと終わらせるつもりで、すぐさまダイヤの8を置く。お互いが淡々とカードを並べていった。

「本当に遊びに来たんじゃないだろうな?」

 痺れを切らして尋ねると、晴は「ええ?」とあからさまにとぼけて見せる。

「俺が芝居をしている間、まさか調査していたんだろう?」

「まあね。大変だったんだから! シゲさんの芝居を観るの我慢して、こそこそ調べ物するの!」

「照明を落下させたのは誰だ?」

「それは分かんないですよ。今言ったでしょ? 私は芝居を見ていなかったんです。舞台袖の小道具やら楽屋の荷物やらを漁ってる最中、舞台のほうが騒がしくなったから、慌てて戻ってきたんです」

「ちっ……」

「でも、追加で分かったことがありました」

 そう言って、晴はハートのキングを静かに置いた。

「座長の荷物の中に、劇団の運用資金のための通帳がありました。そこには、樹くんの口座からの振り込みがあるんです」

「それは知っている。バイト代から回しているんだろう」

「先月の入金が六万。先々月の入金が八万でした」

「……多くないか?」

「正直そう思います。毎日働いたって、バイトで稼げるお金なんて、たかが知れてる。いくら座長と生活を共にしているとはいえ、稼いだほとんどを運営資金に注ぎ込んでいるような勢いです」

「貯金がたくさんあるとか?」

「親元を逃げ出しているので、それは考えづらいかと」

「じゃあ、掛け持ちして?」

「今あんまり稼ぎすぎると、年末にシフトを入れられなくなります。光芒座の公演は、年末には予定されてませんし」

「それもそうか……」

「ってことで、調べ尽くしました。樹くんの鞄から車の中まで、ありとあらゆるところを」

 誰にも見えない魂になったことで、ストーカー気質に拍車がかかっているが、その言及はぐっと飲み込んだ。今はそんなことを言っている場合ではない。

「で、見つけました」

「何を?」

「車のダッシュボードに、封筒パンパンに詰まった札束」

 松野は、カードから目を上げた。晴はにやりと微笑んで続ける。

「臨時収入が入っているんでしょう。でも、いきなり全額、運営資金として口座に入れては怪しまれる。だから、毎月少しずつ入金している」

「南雲に言えないような収入……」

「はい。そして、収入源はここ」

 晴は胸ポケットから取り出した黒いカードを、クローバーの2の隣に置いた。その禍々しいカードを、松野はゆっくりと手に取った。

「……これは」

「闇カジノの会員証です。調べたら、すぐにヒットしました」

 厚さもそれなりにあり、高級感のある黒が微かに光を吸収して、重厚な触り心地を演出している。

「今時、対面で賭博をやっているのか?」

「対面でやることにメリットがあるんですよ」

「ネットだと足がつきやすいということか?」

「それもあるかもしれませんが。多分、イカサマしやすいからじゃないですかね」

 そのとき、松野は気がついた。

 会員証をテーブルの端に置き、手札に目を落とす。しばらく見つめた後、クローバーのAを取って、静かに置いた。

「なるほど……ただ七並べをしたかったわけではないということか」

「私だって、伊達に芝居をやってるわけじゃありません。少しくらい伏線の張り方は覚えたつもりですよ」

 晴はそう言って、自分の手札の一枚を指にかけた。

「ダイヤの3か?」

 その瞬間、彼女はぴくりと動きを止めた。そしてゆっくりと松野を見上げ、にやあっと口角を吊り上げた。

「シゲさんにも分かりましたか」

「カードの隅に、小さな傷がついている」

 カードの背中、その四つ角に、引っ掻き傷のような細い線。それが、全てのカードに入っていた。カードそれぞれに異なる傷だ。恐らく、場所や数によって、背面からカードの中身が分かるようになっているのだろう。

「あとは、この状況でお前が有利になる手を考えれば、自ずと次の手の目星はつく」

「七並べは、次の手を予測しやすいゲームですからね。この勝負を提案して正解でした」

 晴はダイヤの3を引き出し、テーブルに並べた。

 しかし、松野はカードを出さずに、並べられたカードをじっと見つめていた。

「シゲさんの番ですよ?」

「ああ、そうだな……」

 松野は目を上げ、晴の目を真っ直ぐ見つめ返した。

「えっ……な、なんですか」

 晴は予想通り、実に単純に戸惑った。その目の動きを寸分たりとも見逃さないよう、松野は目つきを鋭くさせる。

「金のことだが、一つお前にも聞きたいことがある」

「はい?」

「毎日働いても、バイトで稼げる金はたかが知れている、と言ったな?」

「はあ」

「なら、あんな大金を、お前はいったいどこから調達したんだ?」

 その言葉に、晴は目を剥いた。松野は畳みかける。

「お前のことは調べさせてもらった。こないだの夢の中で、俺はお前のことを聞きそびれていたからな」

「調べたって、何も出てこないでしょう?」

「ああ、圦浦晴の名前ではな」

 その瞬間、晴は凍りついたように表情を引き攣らせた。

「お前は言ったな。『凪咲は自分を追いかけて・・・・・光芒座に入った』と。なぜ彼女と一緒に入らなかった? しかも、同じ演劇の道を歩んでいた幼馴染と。入らなかったんじゃない、入れなかったんだ・・・・・・・・

 そう言って、一枚のチラシを、晴の前に滑らせた。それは、引き出しの中で息を潜めていた、劇団・宵皐月の旗揚げ公演のチラシだ。

「……性格悪いなあ」

「他人の秘密をひけらかす前に、自分の秘密を暴かれないよう、努力すべきだったな」

 そして、ダイヤの2の場所に、一枚の写真を置いた。晴は一瞥したが、すぐに目線をテーブルの外に逸らした。

 写っているのは、一人の初老の男性。舞台俳優の武太壮三むたいそうぞうだ。顔には年相応の、幾重にもなった皺を抱えつつ、その目は丸く子供のようだ。

「お前の本名は、武太晴。圦浦は、母親の苗字だな?」

「……その母親も、もういませんが」

「武太壮三は、小劇団・宵皐月の座長だった。しかし、旗揚げからわずか二年で経営が頓挫。解散となり、後に残ったのは膨れ上がった借金。その額、一千万」

「……すごいなあ、シゲさんのリサーチ力も大概ですよ。あ、私の身体だからかな?」

 晴はおどけてみせるが、それも精一杯のようだった。細めた目の奥で、瞳孔が微かに揺らめいている。松野はその怯えを見逃さず、矢のように言葉を放った。

「その返済に充てていたんじゃないか? 光芒座の資金を横領して」

「……何言ってるんですか」

「否定するのか?」

「当たり前でしょう!」

「なら、なぜあの通帳の名義は、お前ではなく南雲なんだ?」

 すると、晴は一瞬黙り込んで、ふーっと長い息を吐いた。

「どうして、そんな突拍子もない推理を?」

「南雲が俺の周りをうろちょろしとるんだ。お前の横領に気づき始めているんじゃないか?」

「あの通帳は、確かに劇団の資金です。でも、南雲さんと一緒に管理しているものですよ」

「それはおかしい。お前はさっき、樹からの入金がある通帳を運営資金だと言い、南雲の荷物から見つけたと言ったじゃないか」

「運営資金を管理している口座は、二つあるんですよ」

「なに?」

「南雲さんは結構、思いつきでお金を使っちゃう人なので、一旦は私が預かる用に。こっちの口座から使う時は、お互いでちゃんと検討してるんですよ。確かに、他の劇団員には内緒にしてますが」

「信じがたいな」

「なら、座長に聞いてみたらいいじゃないですか。こんな通帳が部屋にあったんですけどって。というか、私が記憶を失ったから、その口座の話をいつ出そうかって、見計らってるんじゃないですか?」

 松野は訝しげに眉をひそめ、晴から目を離さない。

「なぜ劇団員に隠す?」

 すると、晴は困ったように目尻を下げて言った。

「それは……言うまでもないでしょう」

 晴は手札をテーブルに置き、深く俯くと、また長いため息をついてから、ぽつりぽつりと話し始めた。

「長く舞台俳優として活動していた父の背中は、私の永遠の目標でした。いつか父と舞台に立つことが、私の夢だったんです」

 壮三が宵皐月を立ち上げたのは十年前、晴が中学を卒業する年だったという。

「高校を出たら、宵皐月の一員になると約束していたんですが……お金の前に、家族の絆なんか、なんの力もないんだなって」

「資金繰りに失敗しただけだろう? そこまで絶望することか?」

「それがまあ、お金を借りたところが、あんまり良くないところだったみたいで。世間知らずだった父は簡単に騙されて、気がつくと一千万に膨れ上がっていたんです」

 借金取りに追われ、母はノイローゼになり自殺。そして壮三も失踪した。

「そんな時、南雲に拾われたのか」

「ええ、光芒座と出会ったのは偶然でした。近くの公園で、たまたま野外公演をやっていて。懐かしい芝居でした。舞台を自分のものにせんと語る大仰な台詞、舞台の端から端まで使って舞い踊る様子。父の追い求めていた芝居とそっくりでした」

 闇に淀んでいた晴の目が、次第に光を取り戻していく。

「その時、芝居がしたいって気づいて。こんなことになっても、私には芝居しかないって、涙が出ました。ただ、父の愚行は界隈では知れ渡っていて、私も舞台に立てる状態ではありませんでした。それでも……南雲さんは、そんなの気にするなって言ってくれて」

 松野は返事もしないで聞いていたが、晴は表情をコロコロ変え、一人で話を続ける。

「父の芝居は十年前の時点で、古典的と言われていました。長ったらしい台詞、大袈裟な動き……でも私はそれが好きだった。それこそ、演劇の真髄だと思っていた」

 話す機会などなかったのだろう。そもそも、隠していたのかもしれない。ずっと抱えていたものを初めて語ることができて、満足しているのだろう。

 別に、俺は許可していないが。

「父は、自分の苗字を『ぶたい』と読んでいたんです。だから私に『晴』と名前をつけた」

「つまらん洒落だな」

「えー? 結構気に入ってるのに。ま、もう名乗れませんけどね」

「南雲が資金管理をお前に任せているのは、父親の二の舞はしないだろうと、信頼しているということか」

「そうでしょうね。そんな大人にならないよう、私に責任感を持たせてくれているんだと思います」

 晴は松野を見つめると、調子を取り戻したのか、またにやりと微笑んだ。

「で、これでも私が、横領しているとお思いで?」

「……まあ、鎌をかけただけだ」

「あ、悔しいんだ。ダメですよお、犯人を追い詰めるなら、ちゃんと証拠を揃えなきゃ。シゲさんだって、探偵とか刑事の役、たくさんやってきたでしょう?」

「そんなことを言い出したら、樹の件も証拠が弱いぞ。状況証拠にすぎん」

「そうですねえ……ま、そこはシゲさんの迫力を信じますよ。さっきの目! 私も思い当たる節ないのに、なんだか犯人の気分でしたもん!」

 晴の目にあどけなさが戻る。多少分からせてやるチャンスだと思ったのに、結局ひっくり返されてしまった。松野は不満げにため息をつく。

 すると、晴が続けた。

「でも、一つ分からないことがあるんです」

「なんだ」

「樹くんが私を狙う動機ですよ。これじゃ私は、劇団員の秘密をまた一つ握っただけです」

「……お前の話を聞いて、俺は分かった」

「えっ! すごい! なんですか?」

 きらりと輝いた目が、松野を見つめる。逃げるように目を逸らして、彼は手札をいじりながら答えた。

「このトランプに触ったんだ。樹がそれを見て、細工がバレたと勘違いしたんだろう」

 晴は小さく首を傾げて、それから大きな笑い声を上げた。

「それは違いますよ、シゲさん! 確かに、劇団員で集まってやるトランプは樹くんが持ってるものですけど、私はこのトランプに触ったことはないです。だって、カードを配るのは前のゲームで負けた人、片付けるのは今回のゲームで負けた人です。私、ババ抜きで負けたことありませんから! なーっはっは!」

 ところが、晴の笑い声に、松野はいつものような苛立ちを見せない。いつの間にか、晴のほうが不審に思い始めたのか、笑い声を小さくし、彼の顔を覗き込んだ。

「あのう……もしかして」

「……触ったのは俺だ」

 ババ抜きに負けてトランプを片づけ、別のトランプがあることに気がついて、奏に呼び止められたあの時。考えてみれば、事故が起こり始めたのは、その後からだ。

「シゲさんのせいじゃないですかあ!?」

「……よしっ、行くか」

「ちょっとお!」

 松野は立ち上がり、ベッドにごろんと寝転がった。壁側に寝返りを打った彼の背中に、晴は叫ぶ。

「行くって、まさか!?」

「決まってるだろ、劇場だ。今晩、樹は戻ってくる。いや、もう戻ってるかもしれんな。それを踏んで、俺にそのイカサマトランプを持ち帰らせたんだろう?」

 彼女の目は、またテーブルの上のカードに落ちた。

「ま、そうなんですけど……」

「全く、樹が犯人じゃなかったら、どうするつもりだったんだ」

「すみません、樹くんの秘密が分かったことに浮かれちゃって、早くお伝えしたく……」

「俺が動機に気がついたからいいものの」

「私のこと疑っておいて、調子いいんだもんなあ……」

 松野は仰向けになると、両手を頭の後ろで組んだ。にやりと静かに上がった口元から、薄ら笑いが漏れる。

「今に見てろ……俺を陥れようとしたことを後悔させてやる」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る