第七幕 名優に眼差しを

「――よし、みんな、お疲れ! フィードバックは休憩の後にしよう!」

 初めての舞台での通し稽古だったが、目立ったトラブルもなく、幕は降りた。

 南雲の号令を聞いた瞬間、松野はその場にへたり込んだ。大きく呼吸をするたびに、身体がぶるぶると震えた。

「お疲れ様でした」

 彗が静かに歩み寄り、少し荒くなった呼吸の間で言う。松野は、ふっと微笑んで言った。

「まるで、本当にルシアと戦っているみたいだよ」

「私も同じです。――この恐ろしい悪魔を倒さなきゃって」

 彗の目は、冷たさを帯びている。それは、ルシアと同じ目だった。

「晴さん、私、負けませんから」

 彼女は踵を返すと、高い足音を立てて、舞台を降りていった。

 今時あんなに熱心な若者はいないだろうな、と松野はどこか他人事のように考えていた。この俺に追いつこうなんざ、寝言だとしても笑える。

「晴! お疲れ様!」

 今度は凪咲が、高い声を上げて、舞台袖から飛び出してきた。

「すごかったよー! やっぱり舞台の上の晴がいちばんだよ!」

「凪咲の照明のおかげもあるかもね」

「本当!?」

 若者を褒める余裕さえ、彼には生まれていた。

 立ち上がって、舞台から客席に降りる小さな階段へと向かう。

「色合いが良かったんだよ。カイルの怪しいオーラが現れていた。まるで、本当に呪いをかけるような気持ちで――」

 その時だった。

 ばきっ! と大きな音が響いたかと思うと、松野の視界がぐるりと回転した。

 右足が、階段の踏み板を踏み抜いたのだ。まだ残りの三段を残して、彼は客席へと転げ落ちた。

「晴!」

 凪咲の悲鳴が背後で響いて、はっと我に返った。いつかの頭の痛みが蘇り、慌てて起き上がる。しかし、特に痛みや出血は見られなかった。階段が小さかったおかげで、転がりながらも受け身が取れ、膝を少し擦りむいた程度だった。

「晴! 大丈夫!?」

 舞台から飛び降りた凪咲は、すぐさま松野に取りついて、身体のあちこちを確認し始めた。

「ああ、大丈夫大丈夫」

「本当!? もう、またあんなことになったらって……!」

 少し浮かれすぎていたか。久しぶりの舞台に、興奮が収まらない。まだ一回目の通し稽古。俺の進化はこれからだ……。


「よし、次の稽古は第四幕からいこう。カイルの回想と、カイルがエリナに呪いをかける準備のシーンだ」

 南雲の演技指導も、具体性を持ったものになってきている。松野の考えるカイルの像とぶつかることもあったが、何度も意見を重ねながら、お互いの納得するカイルへと少しずつ近づいていった。

「それじゃあ、始めよう。晴、追加の小道具を用意しておいてくれ」

「分かりました」

「よし! 奏! 凪咲! 準備ができたら言ってくれ!」

 松野は舞台袖に駆け込むと、工具棚にかけられていた、小道具の鎖に手を伸ばした。カイルの言葉や振る舞いを反芻しながら、鎖をその手に馴染ませていく。

 その時、金属のこすれるような、不快な音が響いた。松野は顔を上げる。次の瞬間、その眼前を急降下する道具箱が、彼の視界を遮った。

「うおっ……!」

 咄嗟に飛び退くが、その拍子に足がもつれて尻餅をついた。

 すぐそばに落ちた道具箱は、蝶番が破損し、蓋と箱とがはじけるように分離した。追って、叩きつけられるハンマーの轟音、箱から飛び出した釘が、撒菱のように飛び散る。

「どうした!?」

「晴さん!?」

 南雲と彗が、舞台袖に飛び込んできた。

 工具棚を見上げると、道具箱が置かれていたはずの、上から二段目の棚が傾いている。緩んだネジが半分顔を覗かせ、その隣にあるはずのネジはなく、ぽっかりと穴が空いていた。

「古い劇場だからか?」

 南雲が眉をひそめて言う。

「勘弁してくださいよ、座長。もう少しいい劇場借りられないんですか?」

「言ってくれるなあ、晴」

 冗談ぽく言った松野に、南雲は笑って答えた。

 彗は静かに歩み寄り、しゃがみ込んで釘を拾い始めた。

「晴さん、ここは私が片づけておきますから……」

「ちょっと待って、怪我するよ。せめて軍手を……」

 彗と南雲に手伝ってもらい、すぐに片づけは終わって、再び稽古が始まった。


 カイルがエリナに呪いをかけようとしているところに、ルシアが現れる場面。

 ルシアは声なき声で、鎖を持つカイルに叫んだ。カイルはそのオーラを感じ取り、ゆっくりとルシアを振り返る。

「これはこれは、ルシアではないか……」

 ルシアが鋭い視線を向ける一方で、カイルはにやりと歪に微笑む。

「今から、君のご友人の所へ行こうと思っていたんだ」

 ルシアの表情が、たちまち引きつる。まさか、と言いたげな彼女に答え合わせをするように、カイルはひしゃげた笑みで言うのだ。

「そう、灯台守のエリナさ」

 彼女の瞳が燃えるように鋭く光る。唇を噛む一瞬の仕草が、怒りと共に抑えきれない悔しさを滲ませていた。次の瞬間、声なき咆哮を上げ、こちらへ飛びかかってくる。カイルはひらりと彼女をかわして、舞台の上で彼女と位置を入れ替える。ルシアはひざまずき、カイルは朽ち果てた木の前で彼女を見下ろした。

 風の音が怪物のように唸り、舞台を包み込む。その風に乗せるように、カイルは声を轟かせた。

「言っただろう! 俺はお前の大切なものを奪うと! 声を失ったお前に、守れるものはない――!」

 その時、ごうごうと響く風の音の隙間に、不可解な軋む音が聞こえた気がした。直後、南雲の「おい!」という、悲鳴にも似た怒号が飛んでくる。

 我に返ると、背後の枯れ木のセットが、こちらに向かって倒れてきていた。

「うわっ!?」

 今度は避けきれず、松野はセットを抱えるようにして仰向けに倒れ込んだ。

「晴さん! 大丈夫ですか!?」

「晴!」

 彗が駆け寄り、セットをどかそうと力を込める。舞台袖から飛び出してきた樹も加わると、ようやく枯れ木は身体の上からどかされた。

「大丈夫か!?」

「晴ちゃん!」

 南雲とともに、音響席から飛び出してきた奏も舞台に上がってきた。松野がむくりと起き上がると、集まってきた劇団員はまた慌てる。

「だ、大丈夫ですか!? 起き上がって!」

「大丈夫だ……」

 倒れてきたセットを抱え込もうとしたおかげで、勢いが少し弱まったのだろう。直撃というほどの衝撃はなかった。

「晴! 大丈夫!? 怪我は!?」

 照明ブースから飛び出してきた凪咲は到着するや否や、晴の小さな身体に飛びついた。

「いや、特に……」

「本当に、本当に大丈夫!?」

「大丈夫だって! くっつくな!」

「良かったあ。晴ちゃん、元気そう。流石、しぶといねえ」

「奏さん、言い方……」

 彗が呆れたように言う。

 南雲は、倒れた枯れ木のセットのそばにしゃがみ込む樹に歩み寄った。

「樹、セットの確認はしたのか?」

「今日の稽古前に南雲さんと確認したのと、稽古直前にも確認をして、何もなかったんスけど……」

「何か気になるのか?」

「支えを固定していたネジが一本無くなってます……」

 その会話は小さな声でされていたものの、松野は取りつく凪咲を宥めながら、それを耳にしていた。


 その日の稽古終わり、劇団員と別れた後、彼は一人、劇場に戻ってきていた。

 舞台袖に入り、工具棚のそばにしゃがみ込む。先日踏み抜いた小さな階段の残骸が、棚の影にひっそりと隠されていた。

 スマホのライトをつけ、無惨な姿に変わった踏み板を取り出す。

「やっぱりだ……」

 確かに、自然な劣化による破損と考えてもおかしくないほど、板は褐色をまとい、木の筋も浮き上がっている。

 だが、よく見ると、その割れ目は不自然だった。割れ目の半分は、ギザギザした尖りが見えるものの、残りの半分は、まるで元から傷が入れられていたかのように、真っ直ぐだったのだ。

 やはり、工具棚が崩れたのも、枯れ木のセットが倒れたのも、偶然ではないのか?


 脳裏に浮かぶ、劇団員たちの顔。

「あんなことあって、手伝うなんて普通言わねーよ」

 あらゆるセットを製作し管理している樹。細工をするとして、いちばん考えられるのは彼だ。

「私も同じです。――この恐ろしい悪魔を倒さなきゃって」

 晴に対するライバル意識が強い彗。そういえば、いつも駆け寄ってくるのが早いような……?

「流石、しぶといねえ」

 天然な発言が多い奏。あれはもしや、本心なのではないか……?

「もう、またあんなことになったらって……!」

 凪咲は事故のたび、到着が遅れることが多い。照明ブースにいるからだということは分かるが、彼女がその場所にいるという証拠はない……。

「君、本当に、晴?」

 この身体の中にいる松野の面影に気づいているような南雲。あの質問の意図はなんだったんだ……?


 晴が死神を呼び出した方法は、彼女のパソコンを調べると、すぐに見つけることができた。

 部屋の床に塩を撒き、震える手で円形に整える。その陣の真ん中に、怪しげな赤い紋様が刻まれた札を置く。この呪符は、晴が何枚か用意していたようで、引き出しの奥に隠すようにしまわれていた。

 ポケットから小さなナイフを取り出し、左手首に当てる。刃先の冷たさに、小さく肩が震えた。ごくりと唾を飲み込むと、冷たい汗が首筋を伝って背中へと落ちていく。

 どのくらいの傷なら、ダメージを少なくできる? 死神の話が蘇る。こんな華奢な身体では、今度こそ出血多量で死んでしまうかもしれない。

 その時、背後から冷たい風が吹き抜けて、松野は飛び上がった。

「おや、名優も迷信を頼るようになったのですな」

 振り返ると、いつの間にか開け放たれていた窓に腰かける、死神の姿があった。

「そんな仰々しい儀式などしなくても、あなたに呼ばれれば、いつでも参上いたしますよ」

「そうか……なら助かる」

「晴様との契約のうちですからな」

「なに?」

「晴様の身体が本来の寿命を迎えるまで、松野様が死に瀕するような怪我や病気にならないようにしてほしい、と」

「それはそれは。あんたも随分サービス旺盛じゃないか」

「当然。こんな面白い芝居を、特等席で見られるんです。できる限り長く楽しみたいでしょう?」

「なら話は早い。俺がお前を呼び出した理由は分かるな?」

「もう一度、魂を剥がしてもらいたいんですか?」

 ぎろりと睨みつけると、軽口を叩いた死神は口を尖らせた。

「おーこわ、冗談ですのに」

 気を取り直し、松野は尋ねる。

「こいつの魂はどこだ?」

「やっぱり、彼女を元に戻したいんですか?」

「違うに決まっとろうが! こいつに聞きたいことがあるんだ!」

「ほう? と言うと?」

「俺の周りで不可解な事故が起こっていることは知っているな?」

「まあ、存じておりますが。大した怪我にもならなそうなので、眺めているだけでしたけれども」

「明らかに俺を狙って、誰かが引き起こしているんだ。いや……狙っているのは、こいつの身体だ」

「その心は?」

 松野は、小さな手をぐっと握りしめて言った。

「恐らく、こいつがセットから落下したのは、事故ではなかった。誰かに殺されたんだ。だが、俺の魂が入って生き返ってしまった。殺しきれなかったと思った犯人が、再び……」

「なるほど! 素晴らしい推理ですな!」

 死神の拍手は、澄んだ夜の空気に高らかに響く。その鬱陶しさに顔をしかめた時、ふと松野は気がついた。

「……お前今、眺めているだけと言ったな?」

「はい?」

「だったら、今俺に起こっていることが、本当に事故なのか、誰かの策略によるものなのか、分かるよな?」

「……まあ?」

「どうなんだ! 教えろ!」

「見ていれば、ね?」

「は?」

「いや、あなた一人の一生を、目を離さずにずーっと見ているはずないでしょう」

「何を言っとるんだ! 貴様は観客だろうが! だからこいつと契約を!」

「今はタイパの時代ですよ?」

「……たいぱ?」

「タイムパフォーマンス。短い時間でより多くの物事を楽しむ時代なんです。あなたの物語だって、私は面白そうなところだけ観たいんですよ」

「訳の分からんことを! 大体、俺が寿命にそぐわず死なないように契約をしたと、さっき!」

「それは、万が一、松野様が死にかけるようなことがあったら、それをある程度治してあげるということを約束したんです」

「そんなの、その場しのぎじゃないか!」

「結果は同じなんだから、過程はどうでもいいでしょう。保険ですよ、保険」

「屁理屈言いやがって……」

「何を仰いますか。こんなに願いを叶えて差し上げているのに? ワタクシのことを、便利屋だと思わないで頂きたいですな」

 話の腰を折られ続け、松野の苛立ちは積み重なっていく。

「とにかく、こいつの魂を呼び出せ! 話はそれからだ!」

「はいはい、承知しました。と言っても、晴様が承諾すれば、ですが……ま、断ることはないか」

 死神はぶつぶつと呟きながら、窓の向こうの闇へと消えていった。カーテンが微かに揺れ、部屋には冷たい空気が残った。

 それから死神の帰りを待っていたが、彼は日付をまたいでも現れることはなかった。腹が立つあまりに、眠気も吹き飛ぶ。

 ところが、深夜二時を迎えた瞬間、松野は電池切れのおもちゃのように、突然ベッドの上で意識を失ったのだった。


 目が覚めると、当然だが、晴の部屋だった。しかし、何か違和感を覚える。

 まるで霧が立ち込めているように、部屋の中が霞んでいるのだ。火事かと思い飛び上がった時、松野はぎょっとして固まった。

 視線が高い。ベッドについた両手を見ると、幾重にもなる皺の刻まれた、見慣れた重厚な手をしていた。

 ゆっくりと立ち上がり、姿見の前に立つ。次の瞬間、湧き上がる喜びに全身が震えた。

「……はははっ!」

 映っていたのは、紛れもなく松野重幸だったのだ。

 なんだ! 今までの出来事は、みんな悪い夢だったんだ! 当たり前だ! 何が死神だ、魂だ! そんな馬鹿な話があるはずないんだ!

 軽やかなステップでベッドに戻る。寝転がろうとした時、彼の動きはぴたりと止まった。

 そうだ、今までのことは全部夢だった。そのはずだ。

 じゃあ俺は――なぜまだこの部屋にいるんだ?

 その瞬間、彼は自分の背後に、何者かの気配を感じた。

「よく、ストーカーが出てくるドラマで、せっかく苦労して撮った、好きな人の盗撮写真を、画鋲やテープで壁いっぱいに貼ってるシーンがあるでしょ? あれって、解像度が低いと思うんですよね」

 恐る恐る振り返ると、壁一面に貼られた松野たちのポスターと目が合う。そのポスターを前に、まるで美術館の絵画を味わうように立つ、小さな背中があった。

「本当に好きだったら、傷も汚れも日焼けも恐れて、大切に大切に取っておくんですよ。自分がストーカーになって、初めて分かりましたけど。ストーカーの役を貰ったら、リアルに演じてやるぞって思ってました」

「……人によるだろう」

 松野は、諦めたように吐き捨てた。すると、その小さな人影は、ぴょんっと小さく跳ねて、勢いよくこちらを振り返った。霞んだ輪郭が一瞬揺らいだが、その笑顔はあまりに鮮明だった。

「やっとお話しできますね! シゲさん!」

 その顔は、今までうんざりするほど見てきた、圦浦晴の顔そのものであった。

「シゲさんからの直々のご指名! 私、もー大喜びで、こうして馳せ参じましたよっ! いやあ、夢みたい! って、夢の中なんですけどね! 魂しかない私は、もう現実では実体化できないんで! ははっ!」

 松野は、すっかり忘れていた。

 こいつは俺のストーカーで、俺の魂を自分の身体に宿すと考え実行した、異常者だ。こんな奴を呼び出して、まともな話が聞けると思った俺が馬鹿だった。

 晴の甲高い声に、後悔の波が押し寄せる。しかし今の彼には、眉をひそめ、こめかみを押さえることしかできないのだった。

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