第四幕 追う者に代償を

 夜道に怪しげに立つその男の瞳から、松野は目が離せなかった。

「貴様……何者だ?」

「言うなれば、死者の介添人といったところです」

「死者……?」

「ええ、魂を管理し、冥界へ送り届けるのです」

「なら、『介添人』ではなく、『おくりびと』が正しいんじゃないか?」

「せっかくなら、明るい言葉を使いたいでしょう?」

「つまり……死神?」

「ま、一言で言えばそうなりますな」

 男――死神は静かに咳払いをすると、穏やかに微笑んで言った。

「こんな暗い所ではなんです、どこか座れる所へ行きましょう」

「部屋には凪咲がいるから上げられん」

「ご心配なく。ワタクシは、あなたにしか見えません」

「尚更だ! 俺が一人で喋っていることになるだろうが!」

「じゃ、松野様のお家へ行きますか?」

「え?」

「近いでしょう? ここから」


 見慣れた並木道を抜けると、星明かり一つない薄暗い空を切り取るように、その平屋は佇んでいた。ぼんやり灯る街灯に、木造の外観や大きな窓、芝生の手入れが行き届いた庭が浮かび上がった。

 門扉を押し開け、玄関へと向かう。無意識に内ポケットを探ろうとして、はっとした。

「おや、入れないのですか。ご自宅ですのに」

 死神の茶化すような調子にむっとし、ぎろりと睨みつける。しかし死神の目は、扉のほうに向いていた。そして、骨ばった右手をひらりと上げたかと思うと、その指を軽やかに鳴らした。その音と鍵の回る音が、重なって響いた。

「ほお、便利なもんだな」

「これで、ワタクシは自分の仕事の合間に、この家で休息が取れるというわけです」

「なんだと!?」

「冗談ですよ」

 と言いつつも、死神は先陣を切って家の中に入ろうとする。松野は乱暴に彼を押し退け、家の中に飛び込んだ。

 木の香りが鼻をつく。その懐かしさに、彼は一瞬、死神の存在を忘れ、ゆっくりと歩みを進めた。

 居間や寝室はもちろん、レコードを聴くための部屋や執筆をするための部屋など、趣味のために部屋を分けるほど、贅沢な暮らしをしていた。だから、食事と睡眠が一緒になっている晴の部屋は、彼にはたまりかねるのだ。

 居間に鎮座する革張りのソファ、レコード室の棚に並ぶ黒盤――薄闇の埃っぽい空気の中、ひっそりと息を潜めている。そのどれもが、松野重幸の栄光を物語っていた。

 ここは俺の城だ。スポットライトの熱、会場を包む拍手、瞼の裏に焼きついた観客の顔――どれだけの興奮を抱えて帰ってきても、ここは静かに俺を包んだ。

「いやあ、それにしても、風情のあること。こんなところでコーヒーなど嗜んだら、さぞ気分がいいでしょうなあ」

 レコードプレイヤーに手を伸ばす。うっすら積もっていた埃が、その指先にまとわりついた。かつての栄光も埃をかぶっていると思い知らされたようで腹立たしい。そしてその手のひらは、刻み込んだ無数の皺を失った、柔らかなものだ。

「この窓からの景色も格別だ。整えられた庭の向こうに並木道……公道まで自分の絵にしてしまっているのですか。これでお月様が見えれば完璧なのですが……」

 そうだ……俺は完璧だったんだ。

「そろそろ話してもらおうか?」

 かつて観客を震え上がらせた声を、喉の奥から引っ張り上げる。

「俺から完璧な暮らしを奪った、この忌々しい小娘のことを」


 ローテーブルを挟んで向かい合うソファに、二人は腰掛けた。

「先にお伝えしておきますが、彼女は純粋に、あなたの芝居に惚れていただけですよ」

「だとしたら、盗撮なんかはしないと思うが?」

「それは、若気の至りというやつです」

「お前は人間なんかを超越した存在だろう。なぜ肩を持つようなことを言う?」

「肩を持つ? そんなつもりはありませんよ。面白そうだから観劇している。ワタクシはただの観客です。起こったことを、ありのままお伝えするだけですよ」

 質問に答えているようなそうでないような、死神ののらりくらりとした態度。腕を組みソファに深くもたれかかる松野は、貧乏揺すりを隠しきれなくなっていた。

「単刀直入に聞くが!」

「どうぞ」

「俺は元に戻れるんだろうな!」

「無理です」

 当然、と言うように、死神は間髪入れずに答えた。呆然とする松野の顔を見て、小さく首を傾げると、もう一度、はっきりと言った。

「無理、です」

「む、無理ってことはないだろう!? 現に、他人の身体に俺が転生するなんていう、あり得ないことが起こっているじゃないか!」

「元にっていうのは、つまり、その身体から松野様の魂を引き剥がして、晴様の魂を戻す、ということですか?」

「まあ、それもそうだが……」

「それは可能です」

「だったら!」

「では、松野様の魂は、どうされますか?」

「だから、元の身体に!」

「元の身体はどこにあるか、ご存知ですか?」

「どこにって……何を言ってるんだ、さっきから!」

 松野が立ち上がりかけた、その時だった。死神がそれを静止するように、ひらりと右手の手のひらを上げたのだ。

「一度、ご自分の終幕をご覧になってください」

 そしてまた指を組んだかと思うと、高らかに鳴らす。と同時に、彼の背後の机に置かれていたパソコンが、突然起動した。

 松野はソファから立ち上がり、パソコンに歩み寄った。

 その画面に映し出されているのは、一件のニュース記事。見出しには、突きつけるように太く大きな文字が刻まれている。

『俳優・松野重幸 心臓発作で急逝 地方公演の初日に 三月一日』

 掲載されている写真は、松野が最後にゲスト出演したドラマのワンシーンだった。

『松野重幸さんと生前親しかった、俳優・内村崇うちむらたかしさんは、「非常に残念」とコメントした。』

 後の文章は、松野の過去の出演作や簡単な経歴など、当たり障りのない内容で文字数を稼がれていた。

「身体は傀儡、それを操るのは魂。つまり、二つで一組ということです。魂のない身体が動き出すことも、身体を持たない魂が自由を得ることもないわけです」

「……俺の身体は」

「もちろん焼かれ、現世にはありません。そして、冥界にも」

「なぜだ!?」

「空っぽのまま送られたからです。魂のない身体は死者としてカウントできないので、冥界ではなかったことにされます」

「どういうことだ……? 俺の死は異例だったのか? だって、ただの心臓発作だろう?」

「異例だったのは、あなたの死ではありません」

「はあ?」

「晴様が、ワタクシと契約をしたからです。晴様が死んだ時、彼女の身体に、松野様の魂を宿すと」

 松野は、ぽかんとだらしなく口を開くことしかできなかった。一体何から聞けばいいのか分からない。

 そんな心中を察したのか、死神はふっと微笑んでから言った。

「順を追ってお話しします。さ、こちらへ戻ってくださいな」


 晴が光芒座に入ったのは、中学を卒業した直後だった。南雲のもとで修行を重ねながら、プロを目指してオーディションに挑む日々を送っていた。

 しかし、なかなか芽が出ない。若さは当然のステータス。それ以上の何かを持っている者を観客は求めている。オーディションに集う若者たちは、瞼の裏に焼きつくような圧倒的な美貌を持った者、子どもから老人まで巧みに演じ分ける者、観ているこちらの感情を大きく揺さぶる芝居をする者であふれ返る。

 晴は、やんちゃな少年やボーイッシュな女児など、明朗快活でポジティブなキャラクターを得意としていた。けれど、そんなキャラクターは、どんな立ち位置で何を言うか、もう誰にだって分かる。それに、今の時代ではかえって鬱陶しいくらいだと、彼女自身、本当は分かっていたのだ。


「自分のキャラクター性に悩んでいたある日、晴様は座長から、舞台のDVDをいくつか観てくるよう言われました。ジャンルも年代も異なる作品を無作為に選んだ中で、松野様の作品に出会ったのです」

「なるほどな」

「冷徹な眼差し、圧倒的な存在感、画面を超えてこちらの空気さえも支配する声――!」

「いいから、先を進めろ」

「ここ重要なんですよ?」

「そんなわけないだろう!」

「起こったことをありのままお伝えすると言ったでしょう? まあ、聞いてくださいよ。晴様から物凄い熱量で、散々聞かされたんですから」

「はあ……」


 晴が最初に観たのが、葵屋敷の『ホシのアカリ』だった。序盤の爽やかさから打って変わり、闇に染まっていく青年の半生を演じ切った、当時まだ三十代だった松野。彼女は一瞬で魅了された。

「これだ……私が目指すべき芝居はこれなんだ!」

 明るく希望に満ちた性格で終始してしまう晴にとって、この出会いは衝撃だった。

 以来、晴は松野の出演作を片っ端から見て研究した。それだけに留まらず、松野の過去の公演記録や台本を手に入れたり、インタビュー記事を集めたりすることで、彼の芝居の背景に隠されたものまでも見つけようとしていた。


「つまり、この小娘は、俺の芝居を再現しようとしていたと?」

「再現と言いますか、自分の芝居と融合させようとしたのですよ。ほら、晴様の身体で難なく演じ切った、今日のカイルのように」

「ふん、一緒にされるのは心外だな。あれは俺だからできたんだ。若造が俺の芝居のなんたるかを理解しようなんて、無謀な話だ」

「だからこそ、できる限り、あなたの近くにいたかったのでしょうな」

 その言葉に、松野は顔をしかめた。ノートに挟まっていた写真が頭をよぎったのだ。

「彼女のリサーチ能力は見事なものです。まさかワタクシが、人間に呼び出されることになろうとは」

「呼び出された?」

「ええ、松野様がお亡くなりになってから、わずか二日後のことです」


 松野が死んだ日、残響の旗揚げ公演初日、晴は客席にいた。公演の中止が知らされた時に詳しい説明はなかったが、外で唸る救急車のサイレンが、彼女の胸を不安で侵食していった。そしてその日の夜、松野の自宅近くで張り込んでいた晴は、警察が訪れるのを目撃し、全てを悟ったのだ。松野の死が報道されたのは、その翌日のことだった。

「シゲさんが死んだ……私が追いつく前に……」

 彼女にとって松野は、ただの憧れの域を超えていた。いつしか、彼の芝居をいつまでも観ていたいという、無茶な願いも抱くようになっていたのだ。

 そしてその想いは、死神を呼び出して魂の交渉を行うという突飛な術を見つけ出し、それを実行するという狂気に結びついた。

「これはこれは、また手の込んだご招待ですな。いくらワタクシといえど、これだけの血の匂いはクラクラしますよ」

 アパートの床に塩と血で描かれた円の中、浮かび上がるようにして、遂に死神は現れた。

「あらら、これは……退去の時、違約金取られちゃいますよ?」

 拵えられたグロテスクな陣を見下ろし、死神は軽口を叩く。しかし晴は、念願の死神を前にしても顔を上げず、陣のそばで膝をついたまま、うずくまっていた。

 手首に作った傷が、思いの外深くなってしまい、出血が止まらないのだ。華奢な彼女には大きなダメージだった。しかし、朦朧とする意識の中でも、死神の召喚に成功したことへの達成感に震えていた。彼女は眩暈をこらえながら、陣の中央に置かれた呪符に手を伸ばし、死神に掲げて言った。

「シゲさん……松野重幸を、蘇らせて」

「ああ、つい先日、ワタクシの帳簿に載ったばかりですよ。しかし、彼はもうすぐ冥界の門をくぐります。生前と同じお姿で蘇らせることはできません」

「どうしたらできるの……」

「そうですねえ……彼の魂だけなら、不可能ではありませんが」

「じゃあ――!」

「ただし、それには器が必要です。彼の魂が操る身体がなくては。もう彼の火葬は済んでしまうようですし。代わりに現世に空っぽの身体があれば良いのですが……」

 わざとらしくおちょくるように言って、死神は晴をちらりと見やる。すると、彼女はまんまと、その表情に喜びを浮かび上がらせた。そして呪符を握りしめ、痛みに抗うように絶叫した。

「私が死んだら、この身体を使って、シゲさんを蘇らせて!」

 その懇願を、死神は黙って見つめた。方法の一つとして提示はしたが、こんなにも安易に乗ってくるとは予想外だったのだ。彼女の決意に満ちた目をしばらく見つめ返し、死神は骨のような細い指で顎を撫でた。

「まあ、これだけ仰々しいご招待を頂いたのです。あなたの願いを叶えたいのは山々ですが、一つ懸念がありまして」

「何……?」

「魂が一つ余ってしまうのですよ。魂のない身体、身体のない魂は、死者として扱われません。つまり、あなたの身体に松野様の魂を送り込むと、代わりにあなたの魂は追い出され、永久に冥界を彷徨うことになるのです。あなたには、死後の安息も、転生のチャンスも与えられません」

 死神は、超越者の威厳を持って、物々しく伝えたつもりだった。

「なんだ、そんなこと……」

 しかし目の前の晴は、まるで子供の冗談をあしらうように、軽く笑って答えた。

「シゲさんの芝居がこの先も生きるなら、名前のない私の魂なんてどうでもいい!」

「あまり勢いで大口を叩かないほうがいいですよ」

「私は本気なんだよ!」

 しかし、そう強く言葉を放った途端、手首から血があふれ出す。激痛に顔を歪め、晴はまたうずくまった。

「ほら、興奮するとまた出血が……ワタクシは善意で言っているんですよ? こんなに融通のきく死神が他にいますかね? ……って、知らないか」

 晴は、涙の滲んだ目で、死神を見上げた。痛みと悲しみと、自嘲の入り混じった顔をしていた。

「シゲさんの芝居に比べたら、私なんて……シゲさんが消えて、私の価値のない芝居が残るなんて嫌だ……」

「そこまでの執着を見せる人間は初めてですよ。ワタクシだったら、嫉妬で狂いそうになりますが」

「嫉妬なんて……私には、シゲさんの芝居を引き継ぐ力も資格もない……でもせめて、この身体を使って、彼の魂を引き継げるなら、それだけでも貢献できる……!」

「さようでございますか」

 死神は、にやりと口角を吊り上げた。そして右手をひらりと掲げると、優しく指を鳴らした。

 その時、閉め切られていたはずの部屋の中を、夜風が駆け巡った。それは晴の背中から、その身体を貫くように吹き抜ける。心臓に空いた風穴のような感覚に、晴の視界は一瞬真っ白になった。

 胸を押さえ、身体を丸める。血が指の隙間から滴り、塩の円に滲む。やがて彼女の身体は、糸の切れた操り人形のように、力なく崩れ落ちた。

「さて、後はあなたが死ぬのを待つだけですな。どうせなら、最期は派手に逝ってくださいよ。その後は、精々ワタクシのお茶汲みに徹することになるんですから」

 契約を成立させた死神は冥界へ戻るため、コートを翻そうとした。その時ふと、晴の倒れた姿を見下ろす。

 まるで、誰かに手を取ってもらいたげに伸びた左手。その手首からあふれる血が、微かに震える指先を濡らしていた。

 死神は彼女のそばにしゃがみ込むと、骨ばった手のひらを手首の傷にかざした。

「せめてものサービスです」

 その手のひらから、青白い光が放たれたかと思うと、出血は止まり、傷口は跡形もなく塞がった。晴の歪んだ表情はわずかに緩んで、微かに寝息を立て始める。

「これで少しは長持ちするでしょう。盛大に幕を下ろして頂かなければ、面白くないですからな」

 晴の呼吸が整ったのを確認すると、死神はようやくコートを翻し、姿を消した。その刹那、塩の円が焼け焦げたように漆黒に染まり、静寂の中で煙を上げた。


 そこまでを話し終えると、死神は、朗読を一遍語り終えた後のように、長いため息をついた。

 ため息をつきたいのは俺のほうだ、と松野は顔をしかめる。

「ワタクシからは、以上です」

「……以上ですう?」

 素っ頓狂な声の後に、押さえ込まれていた苛立ちが爆発した。

「ふざけるな! 勝手なことしやがって!」

 ソファから立ち上がり、死神を見下ろす。死神は、まるで仔犬の威嚇を見るように、穏やかに目尻を下げて言った。

「そう言われましても。晴様は、ちゃんと対価を払った上で契約をされたのです。こっちで勝手に破棄することはできません」

「なら、俺とも契約ができるということだな?」

「内容によりますが」

「この魂を、俺の身体に戻せ!」

「だから、それは無理ですってば。もうあなたの身体はないんだから。あなた、コンビニで最後の一個の肉まんを買って食べた後に、同じコンビニに行って、金はあるからもう一つ買わせろって言うんですか?」

「ややこしい例えをするな! 肉まんは少し待っていれば取り替えが利くだろう!」

「そうですな。しかし、身体はそうはいきません。あなたの身体に、替えはありませんからな」

「ああ、くそ……」

 松野は頭を掻きむしると、大きな音を立ててソファに腰を下ろした。

「おやおや、そんな乱暴な振る舞いはいけませんよ。可愛い女の子なんですから」

「黙れ!」

「それにしても、すっかり血色が良くなりましたな。ワタクシを呼び出した時なんか、可哀想なくらい真っ青な顔をしていて。このまま死んでしまうんじゃないかなと思っていましたが、翌日にはけろっとして稽古に行ってましたよ」

 松野は深く俯き、死神から目を逸らす。

 この身体が寿命を迎えるまで、俺はこのままなのか?

「あなただって、その身体を随分と楽しんでいるじゃありませんか。実のところ、老俳優の時より輝けるって、浮かれてるんでしょ?」

「だとしても、こんな小娘の身体で生き続けろって言うのか!?」

「何を仰るのです。さっきまで『俺の芝居は死んでない』って昂っておりましたでしょう? この身体でもやっていけるって確信されていた。なのに、今度は戻りたいと? お忙しい方ですな」

「それとこれとは話が別だ!」

「と言うと?」

「芝居が死んでいないのと、この身体で生きることは、別だと言ってるんだ!」

「よく分かりませんなあ」

 と、死神は頭を掻きながら、ソファの背もたれに身を預けた。小さく軋む音がしたと同時に、ほんのり埃が舞うのが見えた。

「あの時は勢いだったんだ。若い頃には貰えていた役を、久しぶりに演じられたから……」

「じゃ、別にいいんじゃないですか?」

 死神は他人事と言わんばかりに、粗雑に言った。松野はもう怒鳴ることもできずに、とうとう口を結んだ。

 こんな身体で、何年生きるつもりだ? 今までの生活に戻れないのなら……。

「ま、契約できないこともないですが」

「……えっ?」

「最初に伺いましたでしょう? その身体からあなたの魂を引き剥がして、晴様の魂を戻すことをお望みかと。あなたは『まあ』と答えた。これは肯定ということですね?」

 死神は音もなく、まるで煙のように立ち上がった。ゆらりと右手を持ち上げる。その瞳孔は、青く妖しげな光をまとって揺らめく。

「もちろん、代償は、あなたの魂をもって」

 彼の右手が、松野に向かってかざすように開かれた、その時だった。部屋の空気が突然冷たくなり、重くのしかかる感覚があった。同時に、松野の身体に異変が走る。

「うぐ……っ!?」

 突然、胸が締めつけられるような感覚に襲われたのだ。心臓に細い糸が直接巻きつき、じわじわと引き上げるような痛みだった。

「うう……」

 肋骨の間を冷たい指が這うような不快感が続く。胸に空いた風穴を隙間風が通り、その穴を段々と大きくしていくような気がする。咄嗟に胸を押さえたが、当然穴など空いていない。

 心臓が一瞬、不規則に跳ねたのを感じて、松野は狼狽した。

「待て……っ」

 乾いた喉から出る声には、空気を震わせる力もない。額に滲んだ冷や汗が、つうと頬を伝って落ちる。

 魂が身体から剥がされる空白が広がっていく。松野は揺れる視界の中、死神をなんとか捉えると、喉を振り絞って叫んだ。

「よせ……やめろ!」

 すると、吊り上げられていた魂が、その糸を切られたかのように、胸に戻る衝撃があった。うずくまっていた松野は、その衝撃に任せ、ソファに勢いよくもたれた。

「どうされたんですか、今度は?」

 死神を見据え、動向を窺う。彼はコートをはためかせ、ゆったりとソファに腰かけた。

 その悠長な振る舞いに憤りを覚え、今度は松野がソファから立ち上がる。

「調子に乗りおって、貴様……!」

 ところが、腰を上げた瞬間、その胸から何かが落ちそうになる感覚があった。嫌な浮遊感に、またうずくまってしまう。

「うっ……!」

「あ、急に動かれないほうがいいですよ。魂を落っことしたら、それこそ元に戻れなくなりますからな」

「どこまでも手玉に取る気か……!」

「心外ですなあ。ワタクシは、松野様のご要望通りにしただけですのに」

 胸に残る冷たい疼きに顔をしかめながらも、松野は息を整えて言う。

「話が変わった……この身体を返すつもりはない」

「本当に言うことがコロコロ変わる方ですねえ」

「当然だ……このままじゃ、今度は俺の魂が行く当てを失うんだろう」

「ええ、二度と現世に転生できませんし、冥界で安らぎを得ることもできません」

「この小娘を助ける義理はない……というか、巻き込まれてるのは俺のほうだ! こいつがどうなろうと知ったこっちゃない!」

 未だ焦点の合わない視界を睨みつけ、松野はテーブルに両手をついて立ち上がった。

「今までの生活に戻れないのなら……」

 テーブルにうっすら積もった埃を払うのは、小さな手から生えた、心許ない細い指だ。

「だったら……この身体を大いに利用するまでだ」

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