第一話 傘の置き場所

朝から、雨だった。

アスファルトに滲んだ傘の群れの下、誰かの靴音がいくつも重なり、町は濡れた音で満ちている。


猫は、濡れることを厭わない。

屋根と屋根の間をすり抜け、軒下の段差を跳び、濡れない場所よりも、誰かの気配が残る方へと歩いていく。


今日は、小さな喫茶店の前で足を止めた。

窓際の席に、若い女が座っていた。

ショートカットの髪は濡れたままで、ココアの湯気も飲まずに、スマートフォンをじっと見つめている。


傘立てには、色違いのビニール傘が二本。

どちらもコンビニのものだ。

しかしその女は、店に入ったとき、傘を差していなかった。


猫は雨粒を落とすように、身をふるわせる。

それから、ガラス越しの視線の先をたどるように、店の奥に目を向けた。


奥の席に、男がいる。

スーツ姿の彼は、コーヒーに口をつけながら、時折ちらりと入口を見る。

まるで、誰かが来るのを待っているようだった。

──だがその誰かは、もうそこにいる。


猫は窓の外から、ふたりを眺める。

けれど、ふたりの視線は、決して交わらない。

女はただ黙ってスマホを見続け、男は入口の扉ばかり気にしている。


数分後、男は席を立ち、店を出た。

そして迷うように傘を選び、左手の傘を取って去っていった。


女は、ようやくスマホを伏せる。

画面には、未送信のメッセージが表示されていた。

「ごめんね。今日、行けそうにない」

その文字を、ただ見ていた。


猫は、女の足元をゆっくり通り過ぎる。

ふと、女が立ち上がった。

小さく笑って、傘立てから残った傘を取る。

そして──それを、そっと元の場所に戻した。


雨はまだ降っている。

女は濡れながら歩き出し、交差点を渡って、曲がり角で消えた。

誰にも気づかれずに、まるで最初からそこにいなかったかのように。


猫は、その後ろ姿を追わない。

ただ、傘立ての前で立ち止まり、しばらくじっとしていた。


そこには、もう誰の傘もない。

なのに、一対だった何かの名残だけが、濡れた地面に滲んでいた。


この町では、出会いと別れがいつも同じ場所にある。

それは、置いていかれた傘のように──誰かの期待だったのか、覚悟だったのか。

あるいは、ただのすれ違い。


猫はまた歩き出す。

雨はその毛並みを濡らすけれど、気にしている様子はない。


すれ違う人々は、誰も猫の存在に気づかない。

けれど、猫は知っている。

誰かが何かを、今日、置き去りにしたことを。


そしてそれは、誰にも見つけられないまま、

明日には、もう跡形もなく消えてしまうのだろう。


猫は黙って、それを見届けていた。

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