猫は物語の交差点を歩く

原田(仮)

序章 猫は物語の交差点を歩く

この町には、音がある。

自転車のブレーキが鳴き、誰かの笑い声が角を曲がる。

風が通り過ぎて、揺れた洗濯物が陽を浴びる。

そんな日常の音が、少しずつ時間を刻んでいる。


猫は、その中を歩く。

ゆっくりと、静かに、足音を立てずに。

決まった道なんてない。

でも、いつもどこかで誰かの物語に、すれ違う。


角のベンチには、ひとりの青年が座っていた。

その手には、小さな紙袋。

何度も眺めては、戻し、また眺める。

中身は、たぶん花だ。

届けるか、捨てるか、迷っている。


猫は、青年の足元を通り過ぎる。

目が合う。けれど、何も起きない。

青年はため息をついて立ち上がり、紙袋をゴミ箱へ落とした。

その手には、わずかに震えがあった。


別の角では、老夫婦が言い争っていた。

声を荒げるでもなく、ただ静かに、互いの言葉が重なっていた。

言い争いというよりも、言い訳のぶつけ合いのような。

たぶん、何かを許せないまま、長い時間が過ぎてしまったのだろう。

どちらも正しく、どちらも苦しい。


猫は、その前を横切る。

老夫婦はそれに気づかない。

会話はふと止まり、どちらからともなく背を向けて歩き出した。

別々の方向へ。


川沿いの道を歩いていたとき、

猫はひとりの少女とすれ違う。

リュックを背負い、うつむいたまま歩いている。

小さな手には、誰にも届かなかった手紙。


きっと、伝えたかったのだ。

でも、タイミングを逃したのか、あるいは最初から言葉が足りなかったのか。

想いは、声にならないまま胸の奥に残っている。

少女は立ち止まり、川に手紙を投げた。


猫は、草の匂いをかぎながらその場を通り過ぎる。

少女は何も言わず、その場に座り込んで泣いた。

泣いている顔は見せず、ただ膝を抱えたまま。


この町では、いくつもの物語がすれ違っている。

始まることもあれば、終わることもある。

終わったように見えて、実は続いていることもあるし、

続いているように見えて、もう壊れているものもある。


猫は、それを見ている。

けれど、何も言わない。

ただ、そこにいるだけ。

誰かの涙のそばで、誰かの選んだ別れの先で。


通り過ぎた風が、草を揺らす。

遠くで誰かが笑う声がする。

そしてまた、どこかで小さな物語が、静かに終わっていく。


猫は歩く。

今日も、明日も、その町の片隅で。

言葉もなく、慰めることもなく、

ただ、そこにある終わりを静かに見届けながら。


それが、この猫の

誰にも知られない、もうひとつの生き方なのだ。

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