第2話
「お待たせ」
軽く息を弾ませながら、桜香は公園に戻ってきた。走ってきたようで、手に持っていたビニール袋が揺れているのがわかる。何か買ってきてくれたのか。
「はいこれ」
私は最初に座っていた石造りのベンチに移動していた。
桜香が近づいてきてビニール袋を見せてきたので、反射的に中をのぞき込む。そこには缶ビールが二本とビーフジャーキーと棒状のチーズが入っていた。どうやら、ここで酒を飲むことになったようだ。
桜香が一本ビールを取り出し、私に差し出してくる。よく冷えているようで、缶の表面に小さい水滴がいくつも付いているのが見えた。
私は、ありがとう、といって受け取る。
桜香もベンチの横に並んで座り、もう一つの缶を取り出し、プルタブを引く。
小気味よい音とともに、缶から空気が飛び出したのがわかる。
「かんぱーい」
缶を差し出してきたので、慌てて缶を開け、軽く缶を当てる。
彼女が口をつけるのを確認してから、私もビールを口に入れる。炭酸が口の中に入り、刺激がやってくる。その波に合わせてビールの苦みが広がり、飲み込むと炭酸と苦みが通り抜けていく。よく冷えたそれは喉を通して、体中を冷やしてくれた。
夜とはいえ、いまだ暑さの残るこの時期にはちょうどいい冷たさのものだ。自分の体が少し冷えたのを感じると同時に、胃が熱を帯びているのを感じた。
「食べる?」
いつの間にかパッケージが開けられ、棒状のチーズの一本をくわえる桜香は、私にチーズの入った袋を向けてくる。なぜかチーズをくわえる唇に目がいってしまった。
どこか、そうどこか、彼女の唇が艶めかしく見えてしまった。
私は視線を外し、パッケージに手を入れる。遠慮することなくチーズを一本取り出し、口の中に放り込む。苦みがチーズの塩気とわずかな甘味に中和され、味覚がフラットに変化していく。
「うまい!」
「でしょ、やっぱりビールにはチーズ!」
「よく覚えてたな。チーズとジャーキーが好きなのを」
「そりゃ、私だって同じの好きなんだから、覚えてるわよ。このセットで何度飲んだことか」
笑いながらさらに一口あおる桜香。ふと缶を持つ手の指に目が行く。アクセサリーやネイルもしていない指だったが、薬指に指輪をしていた跡があった。
男がいるのか、あるいは、いたのか。いるのならなぜ指輪をしていないのか。そもそもなぜ一緒に住むような話になるのか。酒の入った頭ではうまくまとまらない思考で考える。
が、結局はまとまることはずもない。これまたいつのまにか開けられていたビーフジャーキーを一つ私は摘まんでいた。
そういえば、と桜香が話し始める。大学の時に飲んでいたら、一緒に飲んでいた共通の友人がいつの間にか、人形にひたすら話しかけていたとか、やたら人気のあった先生のことがどうしても好きになれなかった話、男子学生にあまりにも人気で、講義室に男が集まりすぎて異様な空気になってしまったマドンナ先生の話、いつだったか酒を飲んで私が動けなくなり二人でしばらくここにいたなどどうでもいいような話をした。
そういえば、あの時桜香は私を介抱してくれている時に、何か話していたが全く覚えていない。
そして話はいつの間にか、誰と誰が付き合ってたとか、あの先生と実は付き合っていた友達がいたとかといった恋バナに話は変わっていった。
「そういえば、ジュンは誰かと付き合ってないの? 学生の時はそんな人いなかった気がするけど」
さすがに話の流れがこちらに向けられてきた。来るような気はしていたので驚くことはなかったが、酒のつまみはいつの間にかなくなっていた。彼女が買ってきてくれたので文句は言えないが、ほとんど食べることはできなかった。
手に持つ缶ビールを飲む。半分ほど残っていたのか、時間が経っているためにかなりぬるくなっていたが、気にはならなかった。
「だ、誰とも付き合ってないよ。彼女もいないし」
しどろもどろに答えてしまう自分がひどく情けなく感じてしまう。
そんな私のことなど気にする様子もなく、桜香はこちらを見つめていた。酒のせいだろう。ほんのり顔が紅潮しているのがわかる。
「へぇ、そうなんだ。いい感じの人とか会社にいたりはしない?」
「いないな。彼女がいたってことはないかもな、それに転勤ばっかりで一つのところに長くいなかったし」
「……そう」
なんだって、そんな淋しそうな顔をするんだ。どうしてそんな顔をしているのか、私にはわからなかった。
その表情もすぐに見えなくなった。桜香が上を向いてしまったから。
「だったら、大学の時、もっと相手してあげればよかったかな!」
「いやいや。桜香と一緒にいた時は楽しかったよ」
こちらを見た表情は明るいものに戻っていた。花が咲いたように、華やいだように。
「そういってもらえると、一緒にいたかいがありました」
変な敬語みたいな言葉を話し出した。缶ビール一本で酔ったのか。
そして、視線が交錯する。桜香の瞳からなぜか視線を外すことができない。まるで縫いとめられているようだった。
なぜか、少し潤んできていた桜香の瞳。顔が近づいてくる。なのになぜか動けない。
いつの間にか、私の首の後ろに桜香の手が回されていた。唇と唇がわずかに触れ合う。
すぐに離れていく桜香。だが、その距離はお互いの吐息がかかるほどの距離を保ったまま。目の前には桜香の顔があった。いや、それ以外はみえない。
「ジュン……二人で、どこか遠くに行こう。あなたと一緒に誰も知らないところに行きたい」
「桜香……。わかった。だけど、明日にしよう。明日誰も知らないところに……」
「……うん。わかった。明日、だね」
ゆっくりと離れていく桜香。座っていた場所に戻ると、いそいそとビニール袋にごみを片付け始める。
大した量もないので、それはすぐに終わり、彼女は静かに立ち上がった。
「明日、私の家に来て。時間は……十時くらいに」
「うん」
桜香が私の前までゆっくりとやってくる。静かに右手をさし出してくる。親指から薬指までが握り込まれ、小指だけをたてた形で。薬指にはやっぱり指輪をつけていた跡が薄く残っている。
「約束」
私は彼女の小指に自分の小指をからめる。約束を交わす仕草は大人になったはずの私たちの心を子供の時へと誘っていく。
「じゃあね……」
名残惜しむかのようにゆっくりとほどけていく二人の小指。私は立つこともできず、座ったままだった。
桜香はふらつく様子もなく、静かに公園の入口へとむかっていく。何か言い知れぬ不安のようなものが心の中に芽生えるが、それが何なのかわからない。
公園から出る直前に、足を止めこちらを振り返ってくる。半身だけ向きを変えた桜香は右手を小さく振っている。
「バイバイ」
「ああ」
私は彼女に手を振り返す。
彼女の姿が見えなくなる。バイバイ、といった彼女の言葉がなぜか心にひっかかりのようなものを残していた。それが何なのかはわからない。
思わず、唇を触る。
あの触れた時の熱は間違いなく本物だった。
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