吾輩はベルゼブブである。

大間九郎

第1話吾輩はベルゼブブである。


 吾輩はベルゼブブである。


 飼い主は教師である。


 五十をいくつか超えているはずだが、エルフの血がそうさせるのか、十四、五にしか見えない子どものような見た目と、本の読み過ぎだろう、目が悪く、顔のほとんどを覆い隠す丸眼鏡が彼の特徴である。


 日がな一日、本に埋もれた研究室でガラスの窓からさす日の光が作るあったかさに黒い毛皮を当てている吾輩のことが好きで仕方ないらしく、ちょっかいをかけたり、かけなかったりしたりする。


 吾輩はこの世界では不幸と死の象徴である黒猫の容姿をしているし、背中にある使い魔としての証である紋章は、吾輩を表す『蠅』が飛翔する横姿が描かれ、普通の人間は吾輩と目を合わせる事すら嫌がるのだが、飼い主は全くそれを気にしない。


 それだけでも吾輩のことがかなり好きなことが分かる。


 夜、同じベッドで寝ることを強要されるのはヘキヘキするが。


 飼い主のつがいが吾輩のことをものすごい目で睨みつけていることに気が付いてほしい。


 飼い主はこの帝都大学院の端の端、第三十七号館、人文学館・異世界言語研究・詩学研究室に一人籠り異世界から流れてきた文学作品や文学研究書を翻訳し、内容を精査し、誰も読まない論文にまとめ、一日一回一人二人しかききに来ない異世界詩学序論の授業を行う。この世界は魔法だ、化学だ、純粋マナ技術だ異世界電子技術だと口角泡飛ばし議論し合う中、我関せずの姿勢を貫き、唯々諾々と無駄な物語研究を耽溺している変人教師である。


「ベル、今日は生徒に、物自体の話しをしようかと思うんだ」


 飼い主はいつも講義の前に、吾輩を生徒に見立て、シミュレーションをする。あがり症なのだ。


 本の積まれた机の上で、ぐにゃりと横向きに寝転がり、右の腹を日の光に当てて、そろそろ左の腹に日を当てるため、寝返りをしようかと思っていた吾輩を両手で持ち上げ、木の丸椅子の上に座らせる飼い主。その前に立ち、コホンと咳をひとつする。


「世界は目で見えない、粒子の集まりでできているんだよ」


 うむ、それは知っておる。エピクロス派だな。確か有名な本があった『物の本質について』であったか、確かそんな名だったと思う。


「粒子だけの世界には色もなく、においもなく、全部がドロドロに溶ける世界なんだよ」


 そうであろう、その後発見される原子には色もにおいもない。


「でも、僕たちは世界を正確な形に認識できない、僕たち人間の感覚器が、僕たちの知覚に制限をかける」


 当たり前のことだ、吾輩の目には、紫外線だろうが、赤外線だろうが、電磁波だろうが、エーテルの流れだろうが精霊だろうが悪霊だろうがなんでも見えるが、ガラス玉にも劣るお前ら人間の目ではそのどれも捕えられん。


「だから僕たちが見ているこの世の中は、正しい形じゃないんだ!」


 ウム、そこに気が付いただけ、お前は頭がいい。


「だから僕たち人間が見える世界を〃現象〃、本当に存在する宇宙を〃物自体〃と呼ぶんだ!!」


 うむ、ドイツ系だな、確かハイデガーか? いや違う、カントか。


「つまり僕らは、それぞれ独立している一人一人の頭の中でしか〃現象〃を確認できない。だから、僕らはみんな違う世界を見ているんだ」


 この話し、面白いか?


 そんな当たり前の話しをいきなりされて吾輩、困惑である。


「ここまでわかったかいベル?」


 飼い主がそう言うので、にゃーんと返事をする。飼い主は吾輩が理解したことに大変喜び、生まれてこのかた梳かしたことが一度もないと言われても驚かない絡み合った髪をもしゃもしゃ掻いて、ニコニコ笑みを浮かべながらポケットから小魚をカピカピに干したおやつを一つだし、吾輩の口には運ぶ。


「ベルに分かるなら、生徒たちは絶対に理解してくれる! ここが分かれば詩学なんて八割がた分かったようなもんだしね!! 良かった!」


 と、言い、生徒に配る資料を小脇に抱え、反対の小脇に吾輩を抱え、研究室を出て行く。


 同じ棟にある教室には生徒が二人だけ座っていた。


 一人は帝都大学の花形である魔法学科の博士課程の生徒で、確か広範囲魔法攻撃の防御術の研究をしているトマスとか言う貴族の男だ。肩にはトマスの使い魔である真っ黒いハゲタカがとまっている。


 トマスは吾輩を見ると、サッと目を逸らし、使い魔のハゲタカは吾輩の魔力に当てられ目を閉じ、小刻みに体を震わせている。


 もう一人の生徒は医学科魔法医学専攻の学士過程の生徒。聖国からの留学生で、先の魔王討伐で勇者一行の一人であった〃聖女〃カチューシア。


 真っ白なローブを着て、髪を頭巾で隠している姿はなんと言うか、儀式的で禁欲的、大変そうだなと言う印象しか出てこんな。


「それでは今日の授業を始めるよ!」


 飼い主が黒板に『物自体』→『現象』と書き、説明を始める。


 二人は真剣に飼い主の授業をきいているが、絶対に理解していない。


 いくつか質問をされ、それに懸命に答える飼い主。なぜ分からないのかが分からない、その分からないが飼い主の精神を焦らせ、どんどん早口になり、話しが脱線し、より分かりにくい説明になっていく。


 生徒二人は悪い生徒ではない、何より理解しようとしている。


 理解しようと、頑張っている。


 だが飼い主のほうがいかん、喋る速度は最初の四倍にはなり、もう考えてしゃべっているのか、口から自動的に関連項目が噴き出しているのか分からんほどだ。カチューシアが最後に、


「それで先生、これが分かったとして、どう詩学に繋がるのですか?」     


 と、言った言葉が引き金になり、飼い主は今までの言葉の渦が、締めが甘かった水道の蛇口から洩れる水滴だったと思わせるほどの、洪水のように言葉を高速で吐き出し、もう言葉と言うより呪文で、飼い主の目の焦点は何もない教室後方の空間にあわされ、

泳ぎまくり、生徒二人は、もう困惑以外の表情を顔に宿さなくなり、九十分の講義の終わりを告げるチャイムが鳴り、それでも壊れたラジオのように言葉を吐き続ける飼い主の頬に吾輩がペチンとパンチを一発入れて意識を取りもどさせるまで続き、自我を取り戻した飼い主は吾輩を胸に掻き抱き、


「き、今日は先生も準備が足りていませんでしたっ! 明日は必ず! 必ず君たちに詩学の本質を理解させて見せますっ!!」


 と、教室を走り出てしまった。


 目にはほんのりと涙を浮かべながら。


 廊下を走り、校舎の外に広がる中庭を走り、食堂の横を抜け、購買棟の裏を走り抜け、唯一研究室以外で飼い主が心を癒せる場所、禁煙禁煙で大学の敷地の中から追い出され、大学横の職員宿舎の裏にある喫煙所に飛び込む。


 誰もいないジメッとした日の当たらぬ喫煙所で、震える手で腰からキセルを出し、煙草葉を振る手で、力の強弱が取れない不器用な手で、何度も失敗しながらキセルの先に詰め、指先で小さな火魔法を展開し火をつける。


 大きく吸い込み、口と鼻の穴から大量の紫煙を吐き出す。


 子どもが煙草を吸っているように見えるが、飼い主は五十をいくつか超えている立派な成人である。泣きべそをかいているが。


 幾分気分が落ち着いたのだろう、備え付けてある木のベンチに腰を掛け、吾輩を膝の上に乗せ、まだかすかに震える手で、背中を撫でてくる。


「なんで分からないのだろう? 簡単なことなのに……」


 説明不足、そして飼い主の教師としての決定的に、致命的に足りない話しのスキルが今回の悲劇の原因であろうが、そんなことを言っても飼い主のスキルがいきなり上がるわけではないし、教師としての格が上がるわけでもないから、にゃーんと一声、慰めの鳴き声をあげてやると、


「ベルは、分かったよね?」


 と、言うから、にゃーんと、もう一度鳴いてやる。  


 簡単な話しだ。


 この宇宙は矮小な人間には理解できん、それをそれぞれが体にある感覚器により、それぞれの脳で幻覚と言ってもいい世界を作り、理解したふりを装い、何とか生きている。


 それぞれの世界は個別だ、脳が個別であるように、だが人間は群れで生きる生物なので意思疎通を行わなければならん弱い生き物だ。


 それぞれで見えている世界が違う、それでも群れとして意思統一をしなければならん。


 そこで生まれたのが記号であり、言語だ。


 まったく別々の機構で動くパソコンに、ものすごく弱々しく、曖昧で、どうできているのかほとんど分からない言語というOSをぶち込み、何とか無理やりネットワーク形成しているのが人間なのだ。


 だから飼い主は、〃物自体〃→言語→〃現象〃と言うことを説明したかったのだろう。


 そして詩学とは、別々の脳に、あたかも、同じ絵を見せる。同じ感情を見せる。同じ感動を見せる。感じさせることを常とするなら、言語のこの曖昧で、胡乱で、否定神学的にしか姿を現さない陽炎のような特性を理解することは重要である。


 さほど難しい話しではないと思う。


 キセルをカンと灰皿に打ち据え、燃えた灰を捨て、キセルを腰にしまう。


 少し気持ちの整理がついた飼い主は、ゆっくり立ち上がる。


「明日は絶対生徒に詩学を分からせるよ!!」


 元気を取り戻した飼い主は吾輩を肩に乗せ、自分の研究室に戻るため歩き出す。


 明日、今日来た生徒二人は果たしてくるのだろうか?


 今日これほどの失態をしたのに?


 でもこのことを今飼い主に理解させても、また気分が沈むだけだろうから、にゃーんと鳴くだけにしよう。


 飼い主の胸の中から、顔を見上げると、つるりとしたその頬は明日のために色々試作しているのだろう、薄っすら桃色に色づいていた。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る