終わらない夢の終わりに

水鳥川倫理

第1話、記憶の残響。

まるで透明な糸で結ばれているかのように、私たちはいつも隣にいた。彼の腕の中にいれば、世界中の嵐も、私の心に吹き荒れる不安も、すべてが嘘みたいに消え去った。「君を離さない。絶対に」――そう言って私の頬を撫でる彼の指先は、いつも優しかった。私にとって、彼は未来そのものだった。結婚して、ささやかながらも温かい家庭を築き、老いていく日まで共に歩む。そんな夢を、私は彼の言葉と笑顔の中に確かに見ていたのだ。だからこそ、今、この胸を抉るような痛みは、あまりにも現実離れしている。まるで美しいガラス細工が、一瞬で砕け散ったかのような、鋭利で容赦ない痛みだった。


あの夏の終わり、私たちは彼の故郷である海辺の町を訪れていた。夕陽が水平線に溶けていく中、彼は私の手を握り、小石が敷き詰められた浜辺をゆっくりと歩いた。波が打ち寄せるたびに、私たちの足跡はすぐに消え去るけれど、あの時の記憶だけは、私の心に深く刻み込まれている。「ここで君と暮らしたい」と、穏やかな声で彼は言った。その時、彼の瞳に映っていたのは、私と、そして私たち二人の未来だったはずだ。どこまでも広がる海のように、私たちの未来もまた、無限の可能性を秘めていると、私は信じて疑わなかった。私は頷き、彼の胸に顔を埋めた。潮風が頬を撫で、波の音が子守歌のように響いていた。あの瞬間、私の心は満ち足りていた。彼となら、どんな困難も乗り越えられる。そう信じていた。彼の体温が、私の不安をすべて吸い取ってくれるかのように、温かく、そして確かだった。


それから数ヶ月が経ち、私たちは新居となるマンションを探し始めていた。週末のたびに不動産屋を回り、間取り図を広げては、ああでもない、こうでもないと言い合った。彼が選ぶのはいつも日当たりの良いリビングで、私が重視したのは収納の多さだった。そんな些細な意見の相違すら、私たちにとっては愛おしい時間だった。彼の仕事は順調で、私の仕事も新しいプロジェクトが始まり、忙しくも充実した日々を送っていた。週末には二人でインテリアショップを巡り、どんなソファを置こうか、どんなカーテンを選ぼうか、他愛もない会話を交わしながら笑い合った。あの頃の私たちは、まるで絵に描いたような幸福の中にいた。未来への扉は、確実に開かれようとしていた。結婚式の準備も少しずつ進め、ドレスのパンフレットを眺めては、彼に「これが似合うかな?」と尋ねたりした。彼はいつも「君なら何でも似合うよ」と、照れくさそうに笑った。その笑顔が、私の一番の宝物だった。私は、彼の手を握りしめ、この幸せが永遠に続くことを願った。


しかし、ある日を境に、彼の様子が少しずつ変わり始めた。まるで目に見えない砂時計がゆっくりと時を刻むように、私たちの間にひび割れが生じていった。携帯電話を以前より気にするようになり、私といる時でも通知が来るたびにそわそわする。以前は私に隠し事をすることなどなかった彼が、画面を私に見られないように伏せるようになった。最初は仕事の忙しさからくるものだと思っていた。彼が責任感の強い人間であることを知っていたから、無理もない、と自分に言い聞かせた。残業が増え、会議が長引き、出張も増えた。私の心は、彼を心配する気持ちと、ほんの少しの寂しさで揺れていた。しかし、それは次第にエスカレートしていった。夜遅くまで連絡が取れない日が増え、休日のデートも彼からキャンセルされることが増えた。「ごめん、急な仕事が入ったんだ」「体調が優れなくて」――彼の口から出る言葉は、以前の彼からは想像できないほど、どこか冷たい響きを持っていた。まるで、彼の中に、私だけが知らない、別の顔があるかのように感じられた。


私の心には、小さな、しかし確かな疑念の種が蒔かれ始めていた。その種は、日を追うごとに大きく育ち、私の心を蝕んでいった。何度も問い質そうとした。でも、彼の疲れた顔を見ると、その言葉を飲み込んでしまう。「きっと、疲れているんだ。私が理解してあげなくちゃ」。そう思えば思うほど、私の心は張り裂けそうになった。眠れない夜が増え、彼の隣にいても、心が満たされることはなかった。私たちの間には、目に見えない、しかし確固たる壁が築かれ始めていたのだ。私は、彼が私から遠ざかっていくのを感じながらも、その理由を知ることができなかった。彼の視線は、もはや私を捉えることはなく、遠い何かを見つめているかのようだった。


そして、ある雨の日のことだった。朝から降り続く雨は、私の心を重く、暗く沈ませていた。彼からの連絡が途絶え、一日中不安に苛まれていた私のもとに、一通のメッセージが届いた。「話がある」。短い、しかし重いメッセージ。まるで判決を言い渡されるかのように、私の心臓は、警鐘のように激しく鳴り始めた。指定されたカフェに着くと、彼はすでに席に座っていた。いつもなら私を見つけると、優しい笑顔を向けてくれる彼が、その日はただ、俯いていた。彼の背中からは、今まで感じたことのない、冷たい拒絶のオーラが漂っていた。その横顔を見て、私の心はすでに最悪の事態を悟っていたのかもしれない。カフェの窓に打ち付ける雨粒が、まるで私の心の涙を先取りしているようだった。


「ごめん。他に好きな人ができた」。


彼の口から出た言葉は、鉛のように重く、私の耳に響いた。世界が、一瞬にして色を失った。カフェのざわめきも、雨の音も、何もかもが遠ざかっていく。まるで耳栓をしたかのように、周囲の音が聞こえなくなる。彼の瞳は、私をまっすぐに見つめようとはしなかった。その視線は、床の一点に固定されているかのようだった。私の頭の中では、「君を離さない」という彼の言葉が、木霊のように響き渡っていた。あまりにも鮮明に、あまりにも残酷に。まるで、彼の言葉が、私に深く突き刺さるナイフのように感じられた。


「嘘でしょう…? 私を離さないって、言ったじゃない」


震える声で尋ねる私に、彼はただ、謝罪の言葉を繰り返した。「ごめん。本当にごめん」。その謝罪が、私の心をさらに深く傷つけた。謝ってほしいわけじゃない。ただ、理由が知りたかった。いつから? なぜ? 私たちの未来は、一体何だったの? 夢見ていた結婚式も、新居での生活も、すべてが幻だったのかと。喉の奥から、叫び声がこみ上げてくるのを感じたが、声にはならなかった。


彼の口から語られたのは、私とは違う、もう一人の女性の存在だった。職場の同僚で、話しているうちに惹かれ合った、と。彼は淡々と、まるで天気の話でもするように、その女性のことを語った。彼女は彼と同じ趣味を持ち、彼の話をよく理解してくれたという。私の存在は、彼の言葉の中に微塵も感じられなかった。まるで他人事のように話す彼の声が、私の心臓を細切れにしていくようだった。私の目の前にいる彼は、私が愛し、信じ、未来を誓った彼とは、まるで別人だった。私の知っている彼は、もうどこにもいなかった。彼の言葉は、私の心をバラバラに引き裂くようだった。


カフェを出た時、雨はさらに強くなっていた。まるで私の心の中の嵐を映し出すかのように、激しく降り注ぐ雨。私の頬を伝うのは、雨粒なのか、それとも涙なのか、もう分からなかった。傘もささずに、私はただ、当てもなく歩き続けた。足元は水溜まりでぐしょぐしょになり、冷たい雨が全身を打ちつけた。でも、体の冷たさよりも、心の底から湧き上がる絶望の方が、はるかに耐え難かった。まるで魂が体から抜け落ちてしまったかのように、私は感情のない人形と化していた。


彼は、私の全てだった。私の未来を、私の夢を、私の存在そのものを、彼は定義していたのだ。彼がいなければ、私はどうなってしまうのだろう。どこへ行けばいいのだろう。この世界に、私という人間が存在する意味さえも、見失ってしまいそうだった。私の人生の羅針盤が、彼によって取り上げられてしまったような感覚に陥った。目の前が真っ暗になり、一歩も進めない。


数日後、私は彼のマンションを訪れた。もう、彼の隣に立つ資格はない。ただ、残された荷物を引き取るためだけに。私たちの思い出が詰まった部屋は、がらんとして、まるで別の場所のようだった。彼の私物はすでにほとんどなく、残された空間は、まるで私たちの関係の終焉を物語っているようだった。彼との写真、彼からもらったプレゼント、二人で選んだ食器。一つ一つ手に取るたびに、過去の記憶が蘇り、胸が締め付けられる。あの時、私たちはこんなにも幸せだったのに。その幸せは、一体どこへ消えてしまったのだろう。


「君を離さない」――その言葉は、もう私にとっては呪いのようだった。私の心の奥深くに突き刺さり、決して抜けない棘となってしまった。信じ続けた私が、馬鹿だったのだろうか。それとも、彼の言葉が、最初から私を欺くための嘘だったのだろうか。どれだけ考えても、答えは見つからない。ただ、胸の奥に、深い、深い穴がぽっかりと開いてしまったようだった。その穴は、何をしても埋まることのない、空虚な空間だった。


彼の匂いが残る寝室で、私はひざを抱えて座り込んだ。涙はもう枯れ果てたはずなのに、次から次へと溢れてくる。私が愛した彼が、私を裏切った。私の未来を奪った。こんなにも簡単に、過去の存在になってしまうなんて、信じられなかった。指先で涙を拭いながら、私はただ、時間が巻き戻ることを願った。あの幸せな日々に戻って、もう一度、彼と笑い合いたい。しかし、それは叶わぬ願いだ。


窓の外では、まだ雨が降っていた。まるで私の心の痛みを映し出しているかのように、止むことなく降り続く雨。雨粒がガラスを叩く音は、まるで私自身の慟哭のようにも聞こえた。もう、彼が隣にいてくれることはない。私の手を握り、優しい言葉をかけてくれることもない。私にとって「大事な旦那様になる予定の人」だった彼は、もうどこにもいない。彼のいた場所には、ぽっかりと穴が開いているだけだった。


この悲しみは、一体いつになったら癒えるのだろう。この喪失感は、いつになったら消え去るのだろう。終わらない雨のように、私の心の中には、まだ彼の残像と、痛ましいほどの約束の言葉が、降り積もり続けていた。まるで、壊れたオルゴールのように、同じメロディが繰り返し頭の中で鳴り響く。私の夢は、音もなく、静かに終わりを告げたのだ。しかし、その終わりは、新たな始まりの兆しを、まだ私には見せてはくれない。この底なしの絶望から、私はいつか這い上がることができるのだろうか。

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