時の残酷さを越えても余りある物語
ポチョムキン卿
量子エンタングルメントの縁は巡る
第一章:始まりの触れ合い
あれは、幼いポレットがわずか5歳、ミシェルが10歳になったばかりの頃だった。夏の日差しがアスファルトを揺らし、蝉の声が耳を劈くような午後の駅。ポレットは、母親の小さな手から離れ、好奇心に駆られてホームの端へと駆け寄った。眩しい光の中に、一瞬、大きな背中が目に飛び込んできた。それがミシェルだった。少年は、何かを求めて視線を遠くへ投げかけていた。その時、ポレットの小さな指先が、偶然にも彼のズボンの裾に触れた。ほんの一瞬の、軽い接触。ミシェルは振り返りもせず、ポレットもまた、母親の呼び声に慌てて引き戻された。それは、互いの存在を認識することもなかった、ごくありふれた、取るに足らない一瞬の出来事。だが、もしこの世界に量子エンタングルメントが人知れず作用するのだとしたら、この時、二つの幼い魂は、目には見えない微細な繋がりを結んだのかもしれない。
ポレットは、その出来事を記憶していたわけではない。しかし、彼女の心の中には、幼い頃から漠然とした「誰か」への思いがあった。それは特定の顔や名前を持つわけではないが、いつか出会うべき運命の相手がいるという、確かな予感のようなものだった。絵本を読みながら、夕焼けを見上げながら、いつも心のどこかで「いつか」を夢見ていた。まるで、彼女の内なる羅針盤が、まだ見ぬ相手を指し示しているかのように。
一方のミシェルもまた、幼少期から漠然とした感覚を抱いていた。賑やかな場所、特に駅のホームのような雑踏の中にいると、ふと、胸の奥が温かくなるような、それでいてどこか切ないような感覚に襲われることがあった。それは、彼が言葉にすることもできない、奇妙な郷愁にも似た感情だった。友人たちと遊び、勉強に打ち込む日々の中で、その感覚は時折顔を出す。彼はそれを特に意識することなく、しかし、心のどこかで「いつか、何かが変わる」という予感を抱きながら生きていた。まるで、遠く離れた粒子が、互いの存在を微かに感知し合っているかのように、二人の意識は時空を超えて、互いを呼び求めていたのかもしれない。
第二章:交差する軌跡
時は流れ、二人は青年になった。ポレットは文学を志し文学系大学へと進学した。図書館で古びた書物を読み漁り、哲学の講義に熱中する日々。彼女は常に、人との深いつながりを求めていた。新しい友人たちと出会い、恋愛も経験した。しかし、心の奥底に宿る「誰か」への漠然とした思いは、決して消えることはなかった。まるで、どんなに多くの人と出会っても、その「誰か」に辿り着くまでは満たされない、そんな渇望にも似た感覚だった。
同じ頃、ミシェルもまた、その大学の別の学部に籍を置いていた。彼は工学部に所属し、無機質な機械と向き合う日々を送っていた。広大なキャンパスの中で、二人がすれ違うことは、おそらく何度もあっただろう。図書館の廊下、学食の長い列、あるいは学園祭の賑わいの中。それぞれの研究に没頭し、それぞれの友人と語らい、それぞれの未来を夢見る中で、彼らの視線が交わることはなかった。同じ空間にいながら、互いの存在を認識することはない。それは、まるで並行世界の住人のように、互いの軌跡が限りなく近くを通りながらも、決して重なり合うことのない奇妙な巡り合わせだった。
大学を卒業した後、二人はそれぞれの道に進んだ。ポレットは出版業界へ、ミシェルは大手電機メーカーへと就職した。広がる社会の中で、彼らはさらに多くの人々に出会った。会社の中で、二人は再び同じ建物の中で働くことになった。ポレットの部署は広報で、常に華やかな話題を追いかけていた。一方、ミシェルの部署は研究開発で、地道な実験と数値に日々向き合っていた。互いの部署は、物理的にも、仕事の内容的にも、あまりにかけ離れていた。社内報で互いの顔写真を目にすることはあったかもしれないが、数多の社員の中で、それが「あの時の誰か」であると認識する術はなかった。
「いつか、きっと」
ポレットは、心の中でその言葉を繰り返した。漠然とした未来の誰かへの期待は、彼女の人生の原動力の一つとなっていた。仕事に打ち込み、友人たちと語り合う中で、時折胸に去来する切ない予感。それが、彼女を支える、見えない柱だった。
ミシェルもまた、「いつか、何か大きな変化が訪れる」という予感を抱き続けていた。多忙な日々の中でその感覚は薄れることもあったが、ふとした瞬間に、胸の奥から湧き上がるような、確かな予感。それが、彼を飽きさせず、好奇心を持続させる源だった。
しかし、現実は容赦なかった。社会の荒波に揉まれ、それぞれが人生の選択を迫られる中で、二人は、ついに別々の伴侶を見つけた。ポレットは優しく穏やかな男性と、ミシェルは明るく朗らかな女性と巡り合い、それぞれ結婚し、やがて子をなした。互いに温かい家庭を築き、家族を愛し、新しい命の誕生に喜び、子育てに奮闘する日々。人生の節目節目で、「あの誰か」への思いは、記憶の奥底に静かに沈んでいったかに見えた。それは、エンタングルメントされた粒子が、一度観測され、その状態が確定したかのように、それぞれの人生が、それぞれの軌道に乗って進んでいくように見えた。
第三章:時の果てで
歳月は無情にも流れ、二人は、人生の黄昏時を迎えていた。白髪が増え、皺が刻まれた顔には、それぞれの人生が紡いできた物語が刻まれている。子供たちは独立し、孫たちの顔を見る喜びを知った。しかし、喜びばかりではない。最愛の伴侶が、先に旅立ってしまった。共に歩んだ長い道のりの終わりに、深い喪失感が二人を包んだ。
ある晴れた秋の日、ポレットは、亡き夫の墓参りのために、郊外の墓地へと足を運んだ。色づいた木々の葉が風に揺れ、静寂が訪れる場所。線香の香りが、微かに秋の空に溶けていく。ポレットは、夫の墓石に手を合わせ、これまでの人生を振り返っていた。満たされた人生だった。それでも、心の奥底に、決して消えることのなかった、しかし明確な形を持たない「誰か」への思いが、微かに燻っているのを感じていた。
同じ頃、ミシェルもまた、亡き妻の墓参りのために、その同じ墓地へと来ていた。彼は妻の好きだった花を供え、静かに語りかけていた。彼の人生もまた、妻との愛に満たされたものだった。だが、ふとした瞬間に胸をよぎる、あの幼い頃から抱き続けた、漠然とした郷愁のような感覚は、年老いた今もなお、完全に消え去ることはなかった。
ポレットが墓石から顔を上げた時だった。視線の先に、一人の老紳士が立っていた。白い髪に、どこか懐かしい面影。彼は、ポレットの夫の墓の、ほんの数メートル先に立つ墓石の前で、静かに手を合わせていた。その墓石には、女性の名前が刻まれていた。
老紳士がゆっくりと顔を上げた。その視線が、ポレットと交わった。
二人の間に、言葉はなかった。しかし、その瞬間、二人の間に、目には見えない、しかし確かな電流が走った。それは、時間も空間も超越し、遠い過去からずっと存在し続けていた、見えない糸が、ついに張り詰めたかのような感覚だった。
ミシェルの脳裏に、かつてないほど鮮明に、幼い頃の駅のホームの光景が蘇った。あの時、確かに何かが触れた感触。そして、その触れた相手が、今、目の前にいる女性であるという、抗いがたい確信。
ポレットの心臓が、大きく脈打った。長年、心の奥底に燻っていた「誰か」の輪郭が、目の前の老紳士とピタリと重なった。幼い頃の記憶にないはずの、しかし、魂が覚えているような、不思議な感覚が全身を駆け巡った。
二人は、ゆっくりと互いに歩み寄った。
「…もしかして、あなたが…あの時の…」
ポレットの声は震えていた。ミシェルは、深く頷いた。彼の目には、涙が浮かんでいた。
「ああ、君だったんだ。ずっと…ずっと、探していたのかもしれない」
二人は、言葉を重ねる必要がなかった。互いの目を見つめるだけで、彼らの魂が、かつて結んだ遠隔作用の縁を、はっきりと認識し合っていた。駅のホームでのささやかな触れ合い、すれ違った大学のキャンパス、同じ会社のフロア。幾度も交差し、しかし決して重ならなかった二つの人生が、半世紀以上の時を経て、ここに結び合わされた。
彼らは、愛する伴侶を失った喪失感を抱えながらも、同時に、長年の心の渇望が満たされるような、不思議な安堵感に包まれた。それは、ロマンチックな結末とは少し違う。だが、量子が時空を超えて繋がり続けるように、二人の魂は、幼い頃からずっと、互いを求め続けていたのだ。そして、人生の最後に、その縁(えにし)が、静かに、しかし確かな光を放ったのである。
墓地には、秋の風が優しく吹き抜け、二つの影が、寄り添うように並んでいた。彼らは、もう互いを捜し求める必要はなかった。すべての探求は、この場所で、静かに終わりを告げたのだ。
時の残酷さを越えても余りある物語 ポチョムキン卿 @shizukichi
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