THE 江戸ブルー
ストパー野郎/いんそむにあ
序章 雨夜の転生
じっとりとした湿気が肌に纏わりつく、梅雨時の工房だった。橘直哉たちばななおやは、三十五歳。古美術修復家として、それなりに名を知られた存在だった。今宵、彼の目の前には、江戸初期のものと思われる風景図の屏風が横たわっている。依頼主はさる旧家の当主で、傷みが激しく、特に顔料の剥落と退色が著しい。
「この時代の“青”は、本当に難しい…」
独りごちながら、直哉はルーペを手に、剥落しかけた岩絵具の粒子を慎重に見つめる。藍銅鉱らんどうこうか、あるいは群青ぐんじょうか。いずれにせよ、その鮮やかさを取り戻すのは至難の業だ。もし、この時代に後世の化学顔料――例えば、プルシアンブルーのような深みと耐久性を兼ね備えた青が存在したなら、日本の絵画史もまた、少し違った様相を呈していたかもしれない。そんな詮無いことを考えながら、彼は修復計画を練り直していた。
その時だった。けたたましい緊急地震速報が、スマートフォンの画面を赤く染めた。ほとんど同時に、工房全体が激しい横揺れに襲われる。古い木造の建物は、悲鳴のような軋みを上げた。棚から道具類が雪崩を打ち、そして――頭上の古びた照明器具が、不吉な音を立てて落下してくるのが見えた。
「あ…!」
咄嗟に、直哉は屏風の上に覆いかぶさった。依頼品を護らねば、という一心だった。衝撃。そして、急速に遠のいていく意識。最後に脳裏をよぎったのは、あの現実で見たのか夢で見たのかわからない絵に描かれた、どこまでも深く、吸い込まれるような青の世界。(ああ、あの青に、この手が届きさえすれば――)
次に意識が浮上した時、直哉の鼻腔をくすぐったのは、埃と、そして微かな墨の香りだった。重い瞼をこじ開けると、そこは見慣れぬ低い天井。煤けた木の木目が、薄暗がりの中にかろうじて見て取れる。
(どこだ…ここは…?)
身体が鉛のように重い。動かそうとすると、軋むような痛みが全身に走った。何より奇妙なのは、自分の手足が、まるで子供のように小さくなっていることだった。混乱する頭で周囲を見渡す。六畳ほどの、粗末な板の間。壁際には古びた画材らしきもの――硯や筆、そして数枚の和紙が散らっている。部屋の隅には、粗末な布団が畳まれ、その傍らには痩せた男が横たわり、苦しげな息を漏らしていた。
「…父さん…?」
掠れた声で、その男に呼びかけたのは、ほとんど無意識だった。その瞬間、直哉の脳裏に、断片的な映像と感情が怒涛のように流れ込んできた。
父、弥七やしちもまた、長く肺を病んでおり、仕事もままならない。そんな、絶望的とも言える境遇が、まるで最初から自分の記憶であったかのように、すとんと胸に落ちてきた。
(俺は…死んで、生まれ変わったのか…?江戸時代に…?)
窓の隙間から差し込む光が、揺らめく陽炎のように見える。外からは、喧騒と、馬のいななき、そしてどこか聞き慣れない節回しの物売りの声が聞こえてくる。それは紛れもなく、自分が教科書でしか知らなかった世界の音だった。
呆然自失。しかし、それ以上に彼の心を捉えたのは、壁に立てかけられた一枚の描きかけの絵だった。それは、弥七が描いていたのであろう、力のない線で描かれた観音像。だが、その傍らに転がる、使い古された筆と、わずかに残った墨を見た瞬間、新太――いや、直哉の魂は、どうしようもなく震えた。
(描きたい…)
前世で、あれほどまでに焦がれ、探求し続けた「描く」という行為。それが今、手の届くところにある。この、何もかもが違う世界で、自分は何を描けるのだろうか。いや、何を描き出すことになるのだろうか。
絶望と、そして微かな、しかし強烈な興奮がない交ぜになった感情を胸に、伊吹新太としての人生が、静かに幕を開けた。
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