第15話「こいつを人質にすれば、まだ……!」
長編小説「完迎会 - 残響する最後の言葉 -」
第十五話:最後のカウントダウンと砕け散る狂気
「こいつを人質にすれば、まだ……!」
佐藤の狂気に満ちた声が、廃工場内に響き渡る。恵の腕を掴む力は、絶望的なまでに強く、抵抗は叶わない。ペーパーナイフの冷たい感触が、再び首筋に押し当てられ、恵は息をのんだ。警察のサイレンと怒号が、壁の向こうから迫ってくるのが分かる。しかし、それは同時に、佐藤をさらに追い詰め、予測不可能な行動へと駆り立てる可能性も秘めていた。
「動くな!人質を解放しろ、佐藤!」
警察官の一人が、拡声器を通して叫んでいる。しかし、佐藤は聞く耳を持たない。
「近づけば、この女の命はないぞ!」
佐藤はそう叫び返し、恵を引きずるようにして、工場のさらに奥、複雑な配管が入り組んだ薄暗いエリアへと後退していく。山田は、恐怖に顔を引きつらせながらも、佐藤の後に従うしかなかった。
(どうすれば……この状況を打開できる……?)
恵は、必死に頭を働かせた。佐藤は完全に冷静さを失っている。人質を取ったところで、この状況から逃れられるはずがない。彼が狙っているのは、時間稼ぎか、それとも――。
「佐藤さん、もうやめましょう!自首すれば、まだ……!」
山田が、懇願するように言った。
「黙れと言っているだろう、この役立たずが!」
佐藤は、山田を一喝すると、恵の首筋に当てたペーパーナイフに、さらに力を込めた。恵の肌に、鋭い痛みが走る。
その時、恵の目に、頭上の古いキャットウォークが映った。錆びつき、所々崩れかけているが、かろうじて形状を保っている。そして、その上には、何かの工具らしきものが、不安定な状態で置かれているのが見えた。
(あれを使えば……!)
一瞬の躊躇。失敗すれば、佐藤を刺激し、取り返しのつかないことになるかもしれない。だが、このままでは、自分も、そして爆発に巻き込まれるかもしれない警察官たちも危険だ。
恵は、意を決した。
「……佐藤さん」
恵は、できるだけ落ち着いた声で、佐藤に話しかけた。
「あなたの気持ち、少しだけ分かる気がします。誰にも認められず、努力を踏みにじられる苦しみ……。でも、こんなことをしても、あなたの傷は癒えない。あなたは、もっと……建設的な方法で、自分の正しさを証明できたはずです」
その言葉は、意外にも佐藤の動きを止めた。彼の目に、ほんの一瞬、人間的な苦悩の色がよぎったように見えた。
「……お前に何が分かる……」
その声は、先ほどまでの狂気的な響きではなく、どこか弱々しく、悲痛なものに聞こえた。
その、ほんの僅かな隙。
恵は、ありったけの力を込めて、佐藤の腕に掴みかかり、彼の体勢を崩そうと試みた。同時に、足元にあった小さな鉄屑を、キャットウォークの上の工具めがけて蹴り上げた。
カラン、という軽い音と共に、鉄屑は狙い通り工具に命中した。バランスを崩したスパナが、キャットウォークから落下し、すぐそばにいた山田の肩を直撃した。
「ぐあっ!」
山田は短い悲鳴を上げ、その場にうずくまった。
突然の出来事に、佐藤の注意が一瞬、山田へと逸れた。
その刹那、恵は佐藤の拘束から逃れるように身をひねり、彼の腕からペーパーナイフを叩き落とした。カラン、と乾いた音が床に響く。
「なっ……貴様ッ!」
佐藤が怒りの形相で恵に掴みかかろうとした、まさにその時。
「動くな!警察だ!」
複数の警察官が、一斉に工場内へと突入してきた。閃光弾が炸裂し、強烈な光と音が周囲を包む。
佐藤は、眩しさに目を細め、動きを止めた。
その隙を逃さず、警察官たちが佐藤と山田を取り押さえる。激しい抵抗も空しく、二人はあっという間に制圧された。
「恵ちゃん!」
警察官たちの間を割って、翔太が駆け寄ってきた。その顔は、心配と安堵でぐしゃぐしゃになっている。警察の制止を振り切って、ここまで来たのだろう。
「無事か!?怪我は!?」
「大丈夫……翔太くん……」
恵は、全身の力が抜けていくのを感じながら、翔太の腕の中で意識を失いかけた。
その時、誰かが叫んだ。
「爆弾だ!タイマーがもうすぐ!」
佐藤が懐から落としたタイマーは、依然として赤い数字を刻み続けていた。残り時間は、もはや数秒。
絶望的な空気が、再び工場内を支配する。
しかし、一人の爆発物処理班の隊員が、冷静にタイマーへと駆け寄った。緊迫した空気の中、彼は慎重かつ迅速に作業を進める。
誰もが息をのんで見守る中、タイマーの赤い数字が「00:01」を示した、その瞬間。
カチリ、という小さな音と共に、カウントダウンが停止した。
時限爆弾は、間一髪で解除されたのだ。
張り詰めていた糸が、ぷつりと切れた。
安堵のため息が、工場内のあちこちから漏れる。
佐藤の狂気は、最後の最後で打ち砕かれた。
彼は、警察官に取り押さえられたまま、虚ろな目で、解除された爆弾を見つめていた。その顔には、もはや何の表情も浮かんでいない。まるで、魂が抜け殻になったかのようだった。
恵は、翔太に支えられながら、ゆっくりと立ち上がった。
窓の割れ目から差し込む朝日が、埃っぽい工場内を照らし始めている。それは、長い長い悪夢の終わりと、新しい朝の始まりを告げているかのようだった。
全てが終わったのだ。
いや、これから始まるのかもしれない。
それぞれの傷を癒し、未来へと歩み出すための、本当の戦いが。
(つづく)
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