第14話『正義』



長編小説「完迎会 - 残響する最後の言葉 -」


第十四話:迫る狂刃と絶望の淵


「桐島の差し金か?それとも、警察の犬か?どちらにしても、ここへ来たのが運の尽きだな」


佐藤の低い声が、廃工場の一室に響き渡る。その目は、獲物を追い詰めた獣のように、冷たく、そしてどこか愉悦の色を浮かべていた。山田は、鉄パイプを握りしめたまま、恵の逃げ道を塞ぐように立ちはだかっている。懐中電灯の光が揺れ、壁に映る彼らの影が不気味に蠢いた。


恵は、背中に冷たい汗が流れるのを感じた。スマートフォンで録音は続けているが、この状況で無事に逃げ切れる可能性は限りなく低い。それでも、諦めるわけにはいかなかった。


「あなたたちの計画は、もう警察にバレています。すぐにここにも来ます。降伏した方がいい」

恵は、震える声を抑え、毅然とした態度で言った。わずかでも時間を稼ぎ、警察の到着を待つしかない。


「警察だと?ハッ、奴らが来たところで、もう手遅れだ」

佐藤は、手に持ったタイマーのようなものを見せびらかすように掲げた。デジタル表示の赤い数字が、不吉なカウントダウンを刻んでいる。

「この工場は、あと数十分で木っ端微塵になる。お前も、ここで私と共に、過去の残骸と一体になるがいい」


その言葉は、恵の最後の希望さえ打ち砕くようだった。爆破までの時間は、刻一刻と迫っている。


「どうして……どうしてこんなことをするんですか!翔太さんを殺そうとしただけじゃなく、こんな場所まで……!」

「黙れ!」

佐藤が、突然声を荒らげた。その顔は、怒りと苦痛に歪んでいる。

「お前のような部外者に、私の苦しみが分かってたまるか!フロンティア化学は、私から全てを奪ったんだ!名誉も、未来も……そして、私の『正義』も!」


佐藤は、ゆっくりと恵に近づいてくる。その手には、いつの間にかペーパーナイフが握られていた。以前、オフィスで恵を脅した時と同じ、鈍い光を放つ刃物。

「桐島だけでは足りない。私を裏切った者、私を嘲笑った者、全てに報いを受けさせなければ、私の気は済まないのだ」


山田が、鉄パイプを構え直し、恵にじりじりと迫ってきた。彼の目には、恐怖と、そして佐藤への盲従のようなものが浮かんでいる。

「さ、佐藤さん……もう、やめましょうよ……こんなことしても、何も……」

「黙っていろ、山田!お前は、私の指示に従っていればいいんだ!」

佐藤の一喝に、山田はびくりと肩を震わせ、再び口を閉ざした。


恵は、絶望的な状況の中で、必死に活路を探った。実験台の上には、薬品の瓶やビーカーが散乱している。あれを武器にすることはできないか?いや、下手に刺激すれば、何をされるか分からない。


佐藤が、ペーパーナイフの切っ先を恵の喉元に突きつけた。冷たい金属の感触が、肌に直接伝わる。

「最後に何か言い残すことはあるか?まあ、誰にも届きはしないだろうがな」

その目は、完全に常軌を逸していた。


恵は、死を覚悟した。だが、その瞬間、彼女の脳裏に、翔太の顔が浮かんだ。彼を助けたい一心で、ここまで来たのだ。こんなところで、諦めるわけにはいかない。


「……あなただって、分かっているはずでしょう」

恵は、絞り出すように言った。

「こんなことをしても、あなたの苦しみは消えない。あなたは、ただ……誰かに認めてほしかっただけなんじゃないですか?自分の正しさを、誰かに……」


その言葉は、佐藤の動きをわずかに止めた。彼の目に、一瞬、動揺のようなものがよぎった。

「……黙れ……黙れッ!」

佐藤は、再びペーパーナイフを振り上げようとした。


その瞬間だった。

工場の外から、けたたましいサイレンの音が複数、急速に近づいてくるのが聞こえた。そして、複数の男たちの怒号も。

「警察だ!佐藤健司、山田一郎!武器を捨てて出てこい!」


警察が、予想よりも早く到着したのだ。翔太が、恵のメッセージを受けて、的確に情報を伝えてくれたのだろう。


佐藤の顔色が変わった。

「……チッ、もう来たのか……!」

彼は、忌々しげに舌打ちをし、恵からわずかに距離を取った。


山田は、サイレンの音に完全に狼狽し、鉄パイプを取り落としそうになっている。

「さ、佐藤さん!もう、逃げられませんよ!」


「まだだ……まだ終わっていない!」

佐藤は、叫ぶように言うと、恵の腕を掴み、強引に引きずり始めた。

「こいつを人質にすれば、まだ……!」


恵は抵抗しようとしたが、男の力には敵わない。佐藤は、恵を盾にするようにして、工場のさらに奥へと向かおうとする。

爆弾のタイマーは、依然として時を刻み続けている。警察の包囲網。そして、狂気に駆られた佐藤。


絶望の淵に立たされた恵の運命は、風前の灯火だった。

警察の突入は、間に合うのか。それとも、佐藤の狂気は、全てを飲み込んでしまうのか。

廃工場は、まさに一触即発の、極限状態に陥っていた。


(つづく)

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