第10話「……眠れないな」



長編小説「完迎会 - 残響する最後の言葉 -」


第十話:張り詰めた糸と過去からの警鐘


佐藤からの不気味な電話は、恵と翔太の心に重い影を落とした。歓迎会が中止になったにも関わらず、佐藤の執念は衰えるどころか、むしろ増しているようにさえ感じられる。警察による厳重な警戒態勢が敷かれてはいたが、見えない敵の存在は、常に二人を脅かし続けていた。


その夜、翔太のマンションには、万が一に備えて私服警官が一名、室内に待機していた。恵も、翔太のそばを離れずにいた。部屋の電気は煌々と灯され、カーテンは固く閉ざされている。窓の外の闇が、まるで何かを吸い込むかのように濃く感じられた。


「……眠れないな」

翔太が、ぽつりと呟いた。彼の顔には、疲労と不安の色が濃く浮かんでいる。無理もない。数日前まで、自分の輝かしい未来を信じて疑わなかった男が、今や命を狙われ、息を潜めるように生活しているのだ。


「私も……。でも、無理に寝ようとしなくてもいいよ。何か、気を紛らわせることでも考えようか」

恵は、努めて明るい声を出した。しかし、彼女自身も、張り詰めた緊張感で眠気など感じられなかった。


ふと、恵は数日前に調べた、佐藤の過去の情報を思い出した。彼が以前勤めていた会社で起きた、不審な薬品事故。そして、その事故の被害者と佐藤との間に確執があったことを匂わせる匿名のブログ。


「翔太、ちょっと聞いてもいいかな。佐藤さんのことで、何か気になることって、今まで本当になかった?」

恵は、慎重に切り出した。


翔太は、しばらく考え込むように眉を寄せた。

「うーん……佐藤さんか。確かに、時々、なんていうか……俺に対して、妙に執着してるような感じはあったかもしれない。俺の仕事のやり方とか、人間関係とか、根掘り葉掘り聞いてきたり……。でも、それは先輩としての心配からだと思ってたんだけどな」


「それ以外に、何か……例えば、彼が昔の会社のことで何か話していたとか、薬品の知識が異常に詳しかったとか……」


翔太は、ハッとしたように顔を上げた。

「薬品……そういえば、一度だけ、そんな話を聞いたことがある。かなり前だけど、俺が風邪をこじらせて休んだ時、佐藤さんが見舞いに来てくれてさ。その時、薬の話になって、『俺は昔、ちょっと特殊な薬品を扱う仕事をしていたから、薬の知識には自信があるんだ』って、自慢げに話してたことがあったな。その時は、ただの豆知識くらいにしか思わなかったけど……」


その言葉は、恵の心に引っかかった。特殊な薬品を扱う仕事。それは、例の事故と関連があるのだろうか。


「その時、何か具体的な薬品の名前とか、会社の名前とかは……?」

「いや、そこまでは……。ただ、『あの頃は色々と大変だったんだ』って、少し暗い顔をしていたのは覚えてる」


恵は、自分のスマートフォンを取り出し、例の匿名ブログのページを翔太に見せた。

「これ、見て。佐藤さんが昔いた会社で起きた事故の記事と、それに関する匿名の書き込みなんだけど……」


翔太は、食い入るように画面を見つめた。彼の表情が、次第に険しくなっていく。

「……なんだよ、これ……。佐藤さんが、こんな事件に関わってたなんて……。しかも、被害者の人とトラブルがあったって……」


「確証はないわ。でも、もしこれが本当なら、佐藤さんは過去にも……」

恵は言葉を濁したが、その意味するところは明らかだった。


翔太は、ゴクリと唾を飲み込んだ。

「じゃあ、俺だけじゃなくて……他にも……?」

彼の声には、新たな恐怖が滲んでいた。


その時、部屋のインターホンが鳴った。

ビクッと、恵と翔太の肩が同時に跳ねる。待機していた私服警官が、素早くドアの方へ移動し、モニターを確認した。


「……ピザの配達です」

警官が、怪訝な顔で言った。

「俺たち、何も頼んでないよな?」

翔太が、恵と警官の顔を見比べる。


「間違いかもしれません。出ない方がいいでしょう」

警官がそう言った瞬間、再びインターホンが鳴った。今度は、しつこく何度も。


「……何か、おかしい」

恵の胸騒ぎが大きくなる。


警官が、ドアスコープから慎重に外の様子を窺った。

「……配達員が一人、立っています。でも、様子が……」


その直後、ドアの外から、低い男の声が聞こえてきた。

「桐島翔太さん、いらっしゃいますよね?美味しいピザのお届けですよ。受け取らないと、冷めてしまいますよ?」

その声は、明らかに機械で変声されている。だが、そのねっとりとした口調は、数時間前に恵が電話で聞いた佐藤の声と酷似していた。


警官が、即座に無線で応援を要請した。

「こちら、桐島邸。不審者がドアの前にいる。応援を頼む」


ドアの向こうの男は、さらに言葉を続けた。

「開けてくれないんですか?残念だなあ。せっかく、あなたのために『特別なトッピング』を用意してきたのに」


特別なトッピング――その言葉に、恵と翔太は背筋が凍る思いがした。

まさか、ピザに何か……?


張り詰めた糸が、今にも切れそうだった。

過去からの警鐘が、現実の脅威となって、すぐそこまで迫ってきている。

佐藤の狂気は、もはや予測不可能な領域に達していた。


(つづく)

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