第七章 観測者のジレンマ

間宮文彦のデスクは、川崎市役所の建物の、西日が差し込む窓際にあった。彼の机の上は、付箋の貼られた書類の束と、規格の統一されたファイルボックスで、まるで要塞のように整然としている。彼の世界は、条文と、判例と、承認印のロジックで構築されていた。そこに、あの「非周期性低周波振動」のデータは、まるで異教の経典のように紛れ込んでいた。


「間宮さん、まだその件、追ってるんですか」

向かいの席の同僚が、呆れたような、しかし少し心配そうな声で言った。

「課長も言ってましたよ。実害報告ゼロの案件に、これ以上リソースは割けないって」

「……分かっている」

間宮は、画面に表示された波形グラフから目を離さずに答えた。分かっている。これは、行政が処理すべき「案件」のリストから、とうに滑り落ちている。ただの、観測機器が拾った分類不能なノイズ。だが、彼の生真面目さが、その「分類不能」という状態を放置することを許さなかった。秩序を愛する彼にとって、説明のつかない現象は、世界に開いた小さな穴のように思えてならなかった。


寺嶋茉輝の、人を食ったような態度。『音の幽霊』という、非科学的な言葉。

そして、川底のトンネルで会った、魚留羽依里という少女。彼女の「あなたも、音を集めてる人?」という問い。あの時、彼女の瞳は、自分という存在を透かし見て、その向こう側にいる別の誰かを見ているようだった。


彼は、一つの仮説を立てていた。

HASE-ARMAと名乗るサウンドアーティスト(間宮にとっては、ただの迷惑行為者だ)が、魚留羽依里という少女に、何らかの理由で執着している。そして、彼女の周辺で、おそらくは本人の許可なく、特殊な機材を用いた録音活動を行っている。その行為が、意図せずして我々の観測機器に干渉するほどの「環境汚染」を引き起こしているのではないか。

それは、彼のロジックが許容できる、ぎりぎりの線だった。だとしても、立証する術がない。上司の言う通り、これは行政の仕事の範疇を超えている。

だが、あの少女の、まるで怯えた小動物のような目を思い出すと、彼はこの件を「管轄外」のファイルボックスに放り込むことができなかった。あの警告のような言葉は、彼女のためであると同時に、自分の揺らぎ始めた秩序を守るための、防衛線だったのかもしれない。


結局、彼は、公務員としての一線を踏み越えることにした。

正規ルートでの調査が不可能ならば、別の方法を探すまでだ。彼は、自分の権限でアクセスできるデータベースを駆使し、HASE-ARMAという男のネット上の痕跡を、執拗に洗い直した。そして、彼の過去の活動ログの中に、頻繁にやり取りをしている協力者のハンドルネームを見つけ出した。

《W.Keiko》

さらに調査を進め、間宮は驚くべき事実にたどり着く。W.Keikoは、数年前に市が後援したセキュリティ技術のコンペティションで、圧倒的な実力を見せて優勝した、和田恵子という名の若い女性だった。彼女はその後、どんな組織にも属さず、フリーのデータサイエンティストとして活動しているらしい。

専門家だ。それも、最高レベルの。

間宮は、市役所のメールアドレスではなく、個人で取得したフリーメールのアドレスから、彼女にコンタクトを取った。所属は明かさず、一個人の都市環境研究家を名乗った。


『はじめまして、間宮と申します。和田恵子様の過去のご功績を拝見し、ご連絡いたしました。現在、ある特定の個人に起因すると考えられる、微弱な環境振動のデータ解析に行き詰まっております。もしご興味がおありでしたら、一度データをご覧いただくことは可能でしょうか』


返信は期待していなかった。だが、わずか三十分後、彼の受信トレイに短いメールが届いた。


『面白い。データを見せて』


文面はそれだけだった。間宮は、自分が正しい手続きを踏み外し、得体の知れない領域に足を踏み入れてしまったことを自覚した。だが、もはや後戻りはできなかった。彼は、自分が収集した観測データの中から、場所や時間を特定できる情報を全てマスキングし、純粋な波形データだけを彼女に送った。

聖真が持つ「音源そのもの」と、自分が持つ「音源が引き起こした結果」。それらが今、同じ一人の解析者の元へと送られたことを、彼は知る由もなかった。

送信ボタンを押した後、間宮は自分のモニターに表示させていた川崎の電子マップに視線を戻した。彼がプロットした、低周波振動の発生地点を示す赤い点が、まるで熱病の兆候のように、特定のエリアに集中している。そこは、あの廃墟のプール、植物工場、そして川底のトンネル……魚留羽依里という少女の行動範囲と、不気味なまでに一致していた。

西日が差し込むオフィスで、同僚たちの穏やかな喧騒が、やけに遠くに聞こえた。彼は、自分だけが、この街の静かな表面下に潜む、未知の病巣を覗き込んでしまったような、孤独な緊張感に包まれていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る