第22話 決断の時、そして再び路地へ

エミリーとリチャードの間に生じた見えない亀裂は、日ごとに深まっていった。国際的な成功の波に乗るリチャードの瞳は、ビジネスの数字と未来の展望に輝き、かつてエミリーの魂の輝きを見抜いたあの純粋な光は、影を潜めていた。エミリーは、自分の創作の原点である「人々を美しく変え、希望を与える」という願いが、リチャードの求める「世界一のメゾン」という目標とは、異なる方向へ向かっていることを痛感していた。


宮廷での華やかな仕事は続いたが、エミリーの心は満たされなかった。最高級の生地、完璧な技術。それら全てが、彼女の心に、空虚感をもたらしていた。彼女が本当に求めていたのは、ドレスを通して、誰かの心に触れる喜びだった。路地で貧しい子供たちにドレスを届けた時の、あの純粋な笑顔が、彼女の心を離れなかった。


ある夜、エミリーは、アンナに、自分の心の葛藤を打ち明けた。


「アンナさん…私、このままではいけないような気がするんです。リチャードとは、もう、本当に分かり合えないのかもしれません」


エミリーの声は、震えていた。瞳には、深い悲しみが宿っていた。アンナは、エミリーの言葉を静かに聞き、そして、優しく彼女の手を握った。


「エミリー…あなたは、本当に優しい子だ。成功の絶頂にいるのに、それでも、心の声に耳を傾けようとしている。それが、あなたの真の強さよ」


アンナは、エミリーの頭を撫でた。


「あのね、エミリー。あなたは、どこへ行っても、どんな場所でドレスを作っても、あなたの魂の輝きは変わらない。大切なのは、あなたが、何のために、誰のためにドレスを作るのか、その原点を忘れないことよ」


アンナの言葉は、エミリーの心に、深い安堵をもたらした。彼女は、自分の心が求めているものが、何か、はっきりと見えた気がした。それは、宮廷の華やかさでも、世界的な名声でもなく、心の繋がりだった。


数日後、エミリーは、リチャードに、直接、自分の気持ちを伝えることを決意した。彼の多忙なスケジュールを考慮し、数日後の夜、二人きりで話す時間を作ってもらった。


その夜、リチャードは、いつものように、次の海外事業の成功について熱弁を振るっていた。彼の瞳は、興奮に輝いていた。


「エミリー。次のコレクションは、パリで発表する予定だ。きっと、世界中が、あなたのデザインに驚くだろう!」


リチャードの言葉は、彼の揺るぎない自信を示していた。しかし、エミリーの心は、すでに別の場所にあった。


「リチャード…私、あなたと、お話があります」


エミリーの声は、静かだったが、その中に強い決意が込められているのを、リチャードは感じ取った。彼の顔から、一瞬にして笑顔が消え、真剣な表情になった。


「エミリー…どうしたんだい?」


「私…宮廷の専属デザイナーの職を辞し、そして、この工房から離れたいと思っています」


エミリーの言葉に、リチャードは、雷に打たれたかのような衝撃を受けた。彼の顔から、血の気が引いていくのが見えた。


「何を言っているんだ、エミリー!君は、今、世界の頂点にいるんだぞ!これまでの努力を、すべて無にするつもりか!?」


リチャードの声には、焦りと、そして、深い絶望が混じっていた。彼にとって、エミリーの才能は、自身の夢を実現するための、なくてはならない存在だったからだ。


「私の夢は、宮廷の華やかさだけでは、満たされないものだと気づきました。私は、もっと、人々の心に寄り添い、希望を与えるドレスを作りたい。そして、そのために、一度、この場所を離れて、自分の原点に戻りたいんです」


エミリーの言葉は、揺るぎなかった。彼女は、路地の片隅で、初めて針と糸を持った時の、あの純粋な願いを思い出していた。


リチャードは、エミリーの言葉を理解しようと努めたが、彼の心は、ビジネスの成功という目標に囚われすぎていた。彼は、エミリーの精神的な充足よりも、彼女の才能の可能性を、より大きなスケールで考えていたのだ。


「エミリー…君がいないと、この事業は立ち行かない。君の才能は、世界を動かすことができるんだ。なぜ、そんな小さな世界に…」


リチャードの言葉に、エミリーの心は、深く傷ついた。彼女が求める「小さな世界」こそが、彼女にとっての真の幸福だったからだ。


「私にとっての『小さな世界』は、心の繋がりです。そして、私にとっての『大きな世界』は、人々の笑顔です。それは、あなたが見ている世界とは、少し違うのかもしれません」


エミリーの言葉は、二人の間に、修復不能な亀裂が生じたことを、明確に示した。リチャードは、エミリーの瞳を見つめ、そこに宿る揺るぎない決意を感じ取った。彼は、エミリーの決断を、止めることができないことを悟った。


その夜、エミリーは、アンナに、自分の決断を伝えた。アンナは、静かに頷き、エミリーの背中を優しく押してくれた。


「あなたが選んだ道なら、きっとそれが、あなたにとっての正解よ。あなたは、もう、誰かに支えられなくても、自分の力で歩んでいける」


アンナの言葉は、エミリーの心に、温かい光を灯した。彼女は、アンナに、心からの感謝を伝えた。


翌朝、エミリーは、宮廷に辞意を申し出た。女王は、エミリーの決断に、最初は驚きと戸惑いを隠せなかったが、エミリーの真摯な願いを聞くと、最終的には彼女の決断を尊重し、深い理解を示した。女王は、エミリーが去っても、彼女のドレスが残した美の遺産は、永遠に宮廷に語り継がれるだろうと述べた。


そして、その日、エミリーは、宮廷のアトリエを後にした。彼女は、豪華なドレスや、輝かしい名声のすべてを置いて、たった一人、自分の原点へと向かうことを決めた。


エミリーは、宮廷から工房へと向かった。工房の職人たちは、エミリーの決断に驚きを隠せなかったが、彼女の心の奥底にある願いを理解し、静かに彼女を見送った。リチャードは、工房の入り口で、エミリーを待っていた。彼の顔は、深い悲しみと、そして、どこか諦めのような表情をしていた。


「エミリー…本当に、行ってしまうのかい?」


リチャードの声は、静かだったが、その中には、言いようのない寂しさが混じっていた。エミリーは、リチャードの目を見つめた。そこには、かつての二人の愛が、まだ微かに宿っているように見えた。


「ええ、リチャード。私、自分の本当に作りたいものを、もう一度、見つけたいんです。そして、私にしか作れないドレスを、もう一度、届けたいんです」


エミリーの言葉は、彼の心に、静かなる決別を告げていた。リチャードは、エミリーの手に、そっと小さな包みを握らせた。それは、彼女が初めて彼に売った、あの布人形だった。


「これだけは、持っていてくれ。これは、君の原点だ。そして…いつか、君が、真の幸福を見つけたら…また、会おう」


リチャードの言葉は、彼の最後の愛情表現だった。エミリーの瞳に、再び涙がにじんだ。彼女は、その布人形を握りしめ、リチャードに深く頭を下げた。


そして、エミリーは、雪が降り続く中、工房を後にした。彼女は、再び、路地の片隅へと戻ることを選んだ。しかし、それは、かつての絶望的な帰還ではなかった。彼女の心には、新たな希望と、そして、自分の道を歩むという揺るぎない決意が宿っていた。路地の花は、今、光の絶頂から、自らの真の道を見つけるための旅へと、その舞台を移したのだ。この孤独な旅の先に、エミリーは、何を学び、何を見出すのだろうか。

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