宮廷菓子師は異国をめぐる~スイーツ道、一直線!~

フィリア

第一話 砂糖菓子の牢獄

決めたわ!私、世界中のお菓子を食べに行くっ!そして私はこの牢獄を飛び出して、世界一のパティシエになる!!!


—————


「マカロンは三十二個、ローズ型が十八、リボン型が十四、そして最後に、これ以上はないくらい繊細な、蝶の羽型が一つ。くれぐれも、割るなよ」


 厨房の中に響く厳しい声。イリーナ・リューネベルクは、緊張した面持ちで頷いた。額にはうっすらと汗。彼女の指先には、つややかなピンク色のマカロン生地が乗っていた。まるで宝石のような菓子が、銀の皿の上で整然と並んでいく。


 皇国宮廷――それは華麗さと秩序を兼ね備えた、貴族たちの舞台。その中でも宮廷菓子職人たちの厨房は、特に精密さと格式を要求される場所だった。

 イリーナは侯爵家の次女でありながら、菓子職人見習いとしてここで働いている。とはいえ「お手本通りに再現するだけの仕事」に、日々どこか息苦しさを感じていた。


(たまには……ちょっとくらい遊び心があっても、いいんじゃないかしら?)


 ふとした衝動で、マカロンの中央に、小さな砂糖細工のリスのしっぽを添えた。色合いも可愛らしく、フォークを入れるのが惜しくなるような仕上がりだった。

 が――それは、運命の一尾だった。


「お、おおおお……!? なんだこれはっ!」


 午後の茶会に現れた貴族の一人が、マカロンを口にした途端、何とも言えぬ顔で立ち上がり、椅子をひっくり返して叫んだ。


「これはっ、侮辱か!? この私に……“田舎者”とでも言いたいのかっ!」


「えっ!? え、ええっ!? ち、違います! ただ、かわいくなると思って……!」


 騒然とする室内。執事が貴族をなだめようとし、厨房では上司が血相を変えて現れる。


「イリーナ、このお方を侮辱するとはどういう了見だ! この厨房は演劇の舞台ではないのだぞ!」


 イリーナは額を押さえ、俯いた。


(リスのしっぽでそんなことになるなんて……!)


 その日、彼女は厨房を出禁にされた。


「一週間は厨房に入るな! 次やったら、宮廷から追い出す!」


 物置小屋にこもったイリーナは、壊れた砂糖細工の破片を拾いながら呟いた。


「お菓子って、楽しさとか喜びを詰め込むものじゃないの……?」


 答える者はいない。冷たい銀皿の上で、砕けたマカロンがぽろぽろと崩れていた。


 夜。宮廷の大広間では舞踏会が開かれていた。煌びやかなドレスに身を包んだ貴族たちが笑いさざめく中、イリーナは厨房裏の物置で、たった一人で作った「砂糖の城」を仕上げていた。


 塔には細かいレース模様。小さな橋には金箔。水面の代わりに、青いゼリーを敷き詰めた噴水まである。


「……ふふ、完璧ね」


 そう呟いた瞬間、虚しさがこみ上げてくる。


「どうせ誰も見ないのに、ね……」


 そこへ、音もなく姉・カタリナが現れた。


「素敵な仕上がりね。お父様に見せたら、少しは驚くかしら」


「無理よ。お父様は、お菓子なんて“遊び”だと思ってるもの」


「……でも、私は好きよ。イリーナの作るお菓子」


 その言葉は優しいのに、どこか遠かった。イリーナは、あえて軽く笑って見せる。


「ありがとう、でも……お姉様の“完璧”には、きっと敵わないわ」


 そう言って、砂糖細工の城に視線を落とす。

 ふと、イリーナは思う


「ねえ、お姉様。これって牢獄に似てると思わない?」


「牢獄?」


「飾り立てられて、美しくて、でも……中から出られない。誰かが閉じ込めてるんじゃなくて、自分が自分を閉じ込めてるって感じ」


 カタリナは返す言葉を探すように黙っていた。


 その翌日。事件が起きた。


「宮廷に、珍妙な菓子を持った商人が来ております!」


 執事が駆け込んできた声に、騒がしくなる厨房。貴族たちは誰も興味を示さなかったが、イリーナはそっと庭に出た。

 そこには、陽気な中年の男が、荷車に奇妙な包みを積んでいた。


「さぁさ、お立ち会い! これが東方の国から運んできた、モチモチ菓子『モチ』! 一度食べたらもう夢中ッ!」


「……モチ?」


 イリーナは試しにひとつ口に運ぶ。その瞬間――目が見開かれた。


「な、なにこれ……! ふわふわ、むにゅむにゅ……え、え、こんなお菓子、あるの!?」


「へっへっへ、お嬢ちゃん、初めてかい? 世界にはまだまだ、お前さんの知らない味が山ほどあるぜ」


「……!」


 イリーナは感動のあまり震えながら、商人に駆け寄る。


「これ……どこで売ってるの? もっと知りたいの! どうやって作るの!?」


「ひとまずは、東の山越えたところにある“甘露の村”ってとこで作ってるよ。和菓子ってジャンルでねぇ……」


 その瞬間、庭で転んでいた執事が商人の荷車にぶつかり、餅が宙を舞う。


「あああああああああああああっ!! 私のモチがぁぁぁっ!!!」


「だ、だれか皿持ってきてっ! 床に落ちる前にキャッチ!!」


 混乱の中、イリーナは叫んだ。


「決めたわ! 私、世界中のお菓子を食べに行くっ!そして私はこの牢獄を飛び出して、世界一のパティシエになる!!!」


 深夜の宮廷邸宅。侯爵家リューネベルクの東翼、少女の部屋の窓には、カーテンの隙間から月明かりが射し込んでいた。


「よし……静かね。今がチャンス!」


 囁くような声とともに、イリーナは机の上のランプに火を灯した。部屋中を見回し、誰にも気づかれていないことを確認すると、勢いよくクローゼットを開ける。その中には、豪奢なドレスがぎっしりと詰まっていた。


「ええと……旅って言えば、動きやすい格好よね。えっと、このピンクのチュールはダメ……この青いドレスは馬車用だし……って、どれもふわふわしすぎじゃない!」


 ふくらみすぎたスカートを勢いよく引っ張ると、衣桁ごとバタンと倒れて音が響く。


「しぃーっ!!」


 自分で音を立てたくせに、慌ててランプの火を消し、ベッドの下に潜り込む。五秒後、そっと這い出てきて、今度はチェストの引き出しをごそごそ。


「せめて帽子くらい……って、花付き、羽付き、リボン付き……全部“貴族です!”って主張してるじゃない!」


 すっかり途方に暮れていたそのとき、ベッドの奥から、古びた布帽子がぴょこっと顔を出した。


「……お姉様の昔の旅用? 助かった!」


 嬉々として帽子を鞄に詰め、今度は床に並べた荷物を一つひとつ吟味する。


「干しイチジク、よし。ナイフと包丁、よし。ドレスは……さすがに三枚で足りるかな。あ、でも靴がない! 旅用の靴なんて持ってない!」


 そこで彼女の目に留まったのは――廊下に立てかけられた、掃除メイドの作業靴だった。


「……メイドさん、ごめんなさい、ちょっとだけ借りるわ!」


 イリーナは靴をそっと失敬し、足に合わせる。


「……うん、似合わない。でも、これで転ばずに済むならオッケー!」


 その瞬間、部屋の隅で干し果物の袋が倒れ、床にばらまかれた。


「わっ!?」


 足元がすべって、転倒。


「いったぁああああ! 自由って、痛みと引き換えなのね!」


 イリーナは涙目で床を這いながら干し果物を回収し、ぐちゃぐちゃになった荷物を再整理する。


「もうっ……家出って、こんなに疲れるの?」


 どうにか荷造りを終え、ようやく机に向かったのは、それから三十分後のことだった。


「……さて、手紙。書かないとね」


 筆をとる。まずは父宛だ。


「“お父様へ”……」


 数秒間、筆が宙で止まる。


「“ご機嫌いかがでしょうか”……違う。“突然ですが、私は旅に出ます”……これも、違う」


 イリーナの指先が震え始める。


(本当は、もっと話したいことが山ほどある。ねぇお父様、どうして私の話、いつも聞き流すの?どうして姉様とばかり話すの?)


 胸の奥から込み上げてきた言葉が、筆に変わって涙になって零れた。


「……だめだ、書けない」


 紙をぐしゃりと丸め、火鉢の中へ投げ込む。乾いた紙が燃えていく様子を、彼女はしばらく黙って見つめていた。


 そして次に、姉への手紙を……と思ったが、またも筆が止まる。


「お姉様は……なんて書けばいいの?」


 そのとき、引き出しの奥に小さな金属型を見つける。花の形の、可愛らしい菓子型。以前姉が何気なく「これ、スミレの花に似てるわね」と言ったときのものだった。


「言葉より……こっちのほうが伝わるかも」


 イリーナは型を丁寧に布に包み、小さな手紙を添える。


《いつか、これでお菓子を作ってみて。私の代わりに甘い時間を過ごしてくれると嬉しいです》


 包みをそっと胸元に抱えて立ち上がると、彼女は自室を出た。


 深夜の廊下は静まり返っている。イリーナは足音を忍ばせて歩くが、絨毯に乗った猫を踏んで「ニャッ!」と鳴かれ、慌てて柱の影に隠れる。


「……お願い、バレないで!」


 寝ぼけたメイドが顔を出すが、「気のせいね」と呟いて部屋へ戻っていった。


 イリーナは安堵しつつ、姉の部屋の扉の前に立ち止まる。


「……ありがとう、お姉様。いろいろ、あったけど」


 小さな包みをそっと置き、最後に一度だけ扉を見つめて、背を向けた。

 イリーナは静かに歩みを進めた。今度は父の書斎の前で足を止める。重厚な扉の向こうからは、何の音も聞こえなかった。いつもなら深夜まで本を読み、手紙を綴っているはずの父――ヴィルヘルム・リューネベルク侯爵。


 イリーナは一歩、扉に近づきかけ……そして、立ち止まる。


「……いいの」


 囁くように呟いて、その場を離れた。


(書けなかった手紙の言葉なんて、今さら届けたって、きっと読まれないもの)


 それでも心のどこかでは、小さな期待が残っていたのかもしれない。けれど、その期待すら抱いてはいけないような気がして、イリーナは唇を結び、振り返らなかった。

 やがて彼女は裏口へたどり着いた。誰も通らない夜の中庭。草がしっとりと濡れ、木々は風もなく静まりかえっている。空には、満月が浮かんでいた。


「……よし。行こう」


 イリーナは鞄の紐を握りしめ、門へと歩み出す。だがその途中、庭の石畳の隙間に足を取られ、盛大に転倒。


「いったぁああああああっ……またかぁ!」


 荷物の中身が散らばり、帽子が遠くへ転がる。慌てて這いながら拾い集め、また背負い直す。


「やっぱり自由って痛い! もうっ、なんでこうなるのよっ!」


 空に向かって文句を言いながらも、口元にはどこか笑みが浮かんでいた。

 そう、彼女はもう泣いていなかった。

 門の前に立つと、イリーナは深く息を吸い込み、屋敷を振り返る。


「さようなら、リューネベルク家」


 静かにつぶやいたその瞬間、東の空が白み始めていた。

 世界が、ほんのすこし動いた気がした。

 イリーナは門をくぐり、草原へと踏み出す。風が髪を撫で、旅の始まりを告げる鐘のように耳をくすぐった。


「お菓子の道へ、一直線! ってね」


 そう口にしたとたん、肩から鞄がずり落ちてまたも転倒。


「もおぉぉぉぉ! 誰か荷物持ってぇぇぇぇ!」


 叫び声は草原にこだまし、朝焼けの空に溶けていった。

 その頃、屋敷の一室。カタリナは静かに目を覚まし、部屋の扉を開けた。

 足元に置かれた小さな包みに目を留め、しゃがんで手に取る。中から顔を出したのは、スミレの形をした菓子型。


「……ふふ。あなたらしいわね、イリーナ」


 彼女は包みを胸に抱き、東の空を見上げる。まだ誰も知らない小さな冒険が、そこから始まろうとしていた。


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