第25話 春の神隠し・最終日
4月30日。
朝から、学園の空気が違っていた。
紗耶が窓を開けると、桜の花びらが部屋に舞い込んできた。外を見ると、信じられない光景が広がっている。
学園中の桜が、一斉に散り始めていた。
季節外れの桜吹雪が、まるで雪のように降り注ぐ。花びらは地面に落ちることなく、空中を漂い続けている。
「始まったのね」
紗耶は制服に着替えた。鏡に映る自分の顔は、不思議なほど落ち着いていた。
首筋の桜の痣が、脈打つように熱を帯びている。朝日を受けて、それは血のように赤く輝いていた。
机の上には、霧島先輩から託された鍵が置いてある。昨夜から、それは絶えず温かい光を放っていた。
扉をノックする音がした。
「紗耶、入るわ」
瑠璃子だった。彼女もまた、覚悟を決めた顔をしている。でも、その瞳には涙が光っていた。
「準備はいい?」
紗耶はうなずいた。
「最後まで、運命に抗ってみる」
「紗耶...」
瑠璃子は紗耶を抱きしめた。その体は小刻みに震えている。
「怖いわ。あなたを失うのが、怖くて仕方ない」
「瑠璃子」
紗耶は瑠璃子の背中を優しく撫でた。
「大丈夫。きっと、道はある。澪が、霧島先輩が教えてくれた。真実への扉があるって」
二人は手を繋いで部屋を出た。
廊下には、他の生徒の姿はなかった。まるで学園全体が、二人のために空けられたかのよう。
いや、違った。窓から外を見ると、生徒たちは皆、中庭に集まっていた。白い装束を着た桜会の人々に囲まれて、ただ黙って立っている。
「みんな...」
「気にしないで」瑠璃子が紗耶の手を強く握った。「行きましょう」
中庭に出ると、桜の花びらが竜巻のように渦を巻いていた。その中心に、地面に刻まれた巨大な桜の紋様が完成している。
紋様は赤く光り、脈動していた。まるで、巨大な心臓のように。
「美しい...」
瑠璃子がつぶやいた。確かに、それは恐ろしくも美しい光景だった。
100年かけて完成した、巨大な魔法陣。それは今、最後の贄を待っている。
「朝霧さん」
声に振り返ると、生徒会長の一樹が立っていた。彼の表情は苦渋に満ちている。
「止めに来たの?」紗耶が問いかけた。
「いや」一樹は首を振った。「見届けに来た。そして―」
彼は紗耶に近づいた。
「姉からの、最後の伝言を」
「伝言?」
一樹は声を潜めた。
「『鍵は、解放のためにある。檻の奥で、真実と向き合え』」
紗耶は鍵を握りしめた。
「ありがとう」
突然、空が暗くなった。昼だというのに、まるで夕暮れのような薄暗さ。
桜の花びらが、より激しく舞い始めた。それは生き物のように蠢き、紗耶の周りを旋回する。
「時間だ」一樹が言った。「桜会が来る」
果たして、校舎から白装束の集団が現れた。先頭には神代千鶴。その後ろに、長老たちが続く。
「朝霧紗耶」千鶴の声が、中庭に響いた。「時は満ちました。さあ、運命を受け入れなさい」
紗耶は一歩前に出た。
「分かりました」
瑠璃子が紗耶の腕を掴んだ。
「紗耶!」
「大丈夫」紗耶は優しく微笑んだ。「信じて」
紗耶は瑠璃子の頬に手を当てた。
「瑠璃子、あなたに出会えて本当によかった」
「紗耶...」
「もし私が戻れなくても、幸せに生きて。それが、私の願い」
瑠璃子の目から涙が溢れた。
「嫌!そんなの嫌!」
紗耶は瑠璃子を抱きしめた。最後の抱擁。
「愛してる」
その言葉を残して、紗耶は瑠璃子から離れた。
桜の紋様の中心に立つと、地面が激しく振動し始めた。
紋様が眩い光を放つ。その光は天に向かって伸び、暗い空を貫いた。
地面が割れた。
紗耶の足元に、地下への階段が現れる。それは、これまで見たことのない、螺旋状の階段だった。
階段は深く、底が見えない。ただ、桃色の光がゆらゆらと立ち上っている。
「これが、真の迷宮への入り口」千鶴が厳かに告げた。「百年に一度だけ開かれる、封印の扉」
紗耶は階段を見下ろした。
そこから、歌声が聞こえてくる。
91人の少女たちの、悲しい歌声。
『来て』
『13人目』
『私たちを解放して』
紗耶は振り返った。瑠璃子が泣きながら、必死に手を伸ばしている。
「行かないで!お願い、行かないで!」
詩織も、一樹も、皆が複雑な表情で見つめている。
でも、もう戻れない。
紗耶は鍵を胸に抱いて、階段に足をかけた。
「待って!」
瑠璃子が叫んだ。
「私も行く!一緒に行く!」
瑠璃子が走り出そうとしたが、千鶴に止められた。
「白鷺家のお嬢様、あなたの番ではありません」
「離して!離してえええ!」
瑠璃子の絶叫が、紗耶の心を引き裂いた。
でも、振り返らなかった。振り返ったら、決意が揺らいでしまうから。
一段、また一段と降りていく。
階段を降りるごとに、体が重くなっていく。まるで、見えない鎖に引かれているかのよう。
壁には無数の名前が刻まれていた。100年分の犠牲者たち。
『朝霧紗耶』
自分の名前も、すでにそこに刻まれている。
でも、まだ終わりじゃない。
鍵がある。真実の扉がある。
きっと、道はある。
「紗耶ああああ!」
瑠璃子の叫びが、遠くから聞こえる。
その声は、だんだんと小さくなっていく。
いや、違う。
自分が、現世から遠ざかっているのだ。
階段は続く。
どこまでも、どこまでも続く。
時間の感覚が失われていく。
1分が1時間に、1時間が1日に感じられる。
それでも、紗耶は降り続けた。
やがて、階段が終わった。
目の前に、巨大な扉がある。
桜の花びらが無数に刻まれた、美しくも恐ろしい扉。
扉の向こうから、光が漏れている。
そして、歌声。
91人の魂が、自分を待っている。
紗耶は深呼吸をした。
そして、扉に手をかけた。
重い扉が、ゆっくりと開いていく。
眩い光が溢れ出す。
紗耶は目を細めながら、一歩を踏み出した。
そこは―
見渡す限りの桜の園だった。
満開の桜が、永遠に咲き誇っている。
花びらは散ることなく、時間が止まったように美しい。
空は春の青さを保ち、風は優しく、気温は心地よい。
永遠の春。
美しい牢獄。
「ようこそ」
声がした。
紗耶が振り返ると、そこに澪が立っていた。
今度は、はっきりとした姿で。
「澪...」
「待ってたよ、紗耶」
澪の後ろから、次々と少女たちが現れた。
12人、24人、36人...
91人の少女たちが、紗耶を囲んで輪を作った。
皆、穏やかな表情をしている。でも、その瞳の奥には、深い悲しみがあった。
「さあ」
輪の中心に、光る檻が浮かんでいた。
それは、鳥籠のような形をしているが、扉はない。
一度入ったら、二度と出られない。
「13人目の場所へ」
澪が手を差し伸べた。
紗耶は檻を見つめた。
これが、運命。
でも―
紗耶は鍵を取り出した。
「これで、何かが変わるはず」
少女たちがざわめいた。
「鍵?」
「そんなもの、見たことない」
「100年間、誰も持っていなかった」
紗耶は檻に近づいた。
すると、檻の向こう側に、小さな扉が現れた。
今まで誰も気づかなかった、隠された扉。
「まさか...」
澪が息を呑んだ。
「真実の扉...」
紗耶は鍵を握りしめた。
これが、最後の希望。
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