第23話『焼けたおにぎりと、たしかな手のひら』

 朝八時前。

 地下通路の休憩スペースは、いつのまにか人でいっぱいになっていた。寝袋から這い出る者、ベンチの上でうずくまる者、支援団体が配布する小さなおにぎりをもらう列に並ぶ者。


 奈緒とミユキも、列の後ろについた。配られるのは、おにぎり一人一個とインスタント味噌汁の素だけ。けれど、それでも十分だった。

 それが“誰かに与えられたもの”だというだけで、心が少しだけ、温かくなった。


 列の前で声を張っているのは、シンプルなエプロンをした中年の男性だった。色あせた帽子の下に見える顔には深い皺が刻まれているが、その声は明るく、どこか懐かしい響きがあった。


「はい、おひとつどうぞ。今日はちょっと焦げちゃってるけど、許してね」


 差し出されたおにぎりを受け取ると、ほんのり湯気が立っていた。

 ミユキが小声でつぶやく。


「……手で握ったやつだ」


 奈緒は頷いた。

 透明なラップ越しに、ほんの少し指のあとが残っている。


 “誰かの手のひら”が、確かにそこにあった。


 そう思った瞬間、涙が込み上げた。

 この数年、レジを通った弁当の包装、真空パックのパン、通販の段ボール箱。

 そのどれにも「誰かの存在」を感じたことはなかった。


 だが今朝、自分の掌にのっているこの一個は違う。

 焦げた部分すら、愛おしく思えた。


「中身、なにかな……」

「梅だったら、泣くな……」


 ふたりは苦笑し合った。

 そのやりとりに、隣で並んでいたおばあさんが、ふっと笑った。


「焦げてるのは、急いで握ったからさ。あの人、火加減いつも下手でね。けど、あったかいよ」


 おばあさんは、か細い手でおにぎりを包み込みながら、どこか懐かしむように話していた。


「私、あの人のご飯、何年も食べてるの。ここで暮らして十年。住むとこもないけど、心はなんとか保ってるよ」


 奈緒は、その言葉に震えた。


 十年……。


 この場所に辿り着くまでの時間よりも、はるかに長い時間を、ここで生きてきた人がいる。

 決して幸福とは言えない環境の中で、それでも、今もこうして笑っている。


 ──自分は、これまで何をしてきたのだろう。


 「なんとかなる」と言い聞かせながら、すり減るだけの毎日を送り、勇気もなく、他人の善意からも目を背けてきた。

 けれど、こうして焦げたおにぎり一つで、胸がいっぱいになるなら。


 まだ、何かできるかもしれない。


 奈緒は、そう思った。


 手の中のぬくもりを噛みしめるように、おにぎりをひとくちかじった。

 口いっぱいに、少し塩辛い梅干しの味が広がった。


 涙が止まらなかった。

 けれど、今だけは、その涙を隠そうとは思わなかった。


 ミユキが、ゆっくりとつぶやいた。


「おいしい……ね」


 奈緒は、小さく頷いた。

 焦げてても、塩辛くても、涙で喉が詰まっても。


 こんなに優しい味は、久しぶりだった。


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