第22話『避難所の壁に描かれた“笑顔”の意味』

午前五時半。早朝の空気は乾いていて、息を吸い込むたびに喉の奥がひりついた。


 奈緒とミユキは、駅前の小さな地下通路に続く階段を降りていく。昨晩までシェルターにいたことが嘘のように、外の世界は静かだった。人の気配はまだ少なく、電車の始発を待つ者たちが、ホームのベンチで膝を抱えている。


 ふたりが目指したのは、その地下通路の端にある小さな無料休憩スペース。夏には冷房が、冬にはわずかながら暖房が入り、夜間だけ毛布が配布されると聞いていた。


「……ここ、か」


 ミユキが小声で言った。


 シャッターの開いたスペースには、折りたたみ椅子と簡素なテーブルが並び、壁際には使い古されたマットレスが積まれていた。すでに何人かが中で横になっているが、誰も話さず、音も立てず、ただ時間が過ぎるのを待っている。


 奈緒とミユキは端の壁際に腰を下ろした。背中が冷たいコンクリートに触れ、目を閉じた瞬間、あまりに自然に、涙が滲み出てきた。


 しばらくして、ミユキがぽつりと言った。


「壁、見て」


 奈緒が顔を上げると、ふたりの背後の壁に、大きな笑顔のイラストが描かれていた。

 それは、子どもが描いたような単純な線の笑顔。目は丸く、口は不自然なほど広がっていた。


 ──笑ってる。


 けれど、どこか怖い。いや、違う。

 無理に笑おうとしている、そんな風に見えた。


「これ……誰が描いたのかな」

「わかんない。でも、なんか、ちょっとさ……頑張れって言われてる気がして」

「……うん」


 そのときだった。


「それ、俺が描いたんだ」


 不意に声がした。


 振り向くと、小学校高学年くらいの少年が、毛布に包まった体を起こしていた。


 顔は痩せていて、目元には薄いクマがある。けれど、どこか達観したような、年齢に見合わない静けさを帯びた顔つきだった。


「ここ、たまに泊まるんだ。母さんがいない日は、ね」


 ミユキが小さく問いかける。

「お母さんは……?」

「仕事。夜の。それか、どっか行っちゃってる。帰ってこない日もあるけど、別に、慣れたから」


 少年はそう言って、また毛布に顔をうずめた。


 その背中を見つめながら、奈緒は胸の奥がひどく痛んだ。


 さっきまで、泣いていた自分が恥ずかしくなった。

 守られていたのに、守ることもできず、ただ逃げてきただけの自分が。


 けれど、そんな自分だからこそ、いま、何かを知れた気がした。


 あの笑顔の意味は、きっと――

 誰かを励ますためではなく、自分自身に言い聞かせるためのものだった。


 「大丈夫。きっと、明日は来る」

 「平気。まだ、笑える」


 そう信じたい誰かが、壁に残した祈りだったのだ。


 ふと、少年が毛布の中から顔を出して、ひと言だけ、つぶやいた。


「お姉さんたち、どこから来たの?」


 奈緒とミユキは顔を見合わせて、少し笑った。


「……地獄から逃げてきたんだよ」


 その言葉に、少年は小さく笑った。

 笑い声はとても小さく、地下通路の空気にすぐ溶けていった。


 けれど、その瞬間だけは確かに、ここに、優しさがあった。


第23話『ダンボールの仕切りの向こうに、人の息遣い』


 休憩スペースを出たふたりは、駅構内の掲示板に貼られた「生活困窮者支援センター」の案内を見つけた。無料の食事提供、就労相談、一時的な宿泊先──様々な文言が並んでいた。


「……行ってみる?」

 ミユキが言うと、奈緒は一瞬ためらいながらも頷いた。


 センターは少し離れた公民館の一角に設けられていた。到着すると、すでに並んでいる人の列があった。

 男性が多く、年齢はさまざま。中にはスーツ姿のまま眠っている者もいた。


 受付を済ませ、奈緒とミユキは間仕切りで区切られた小さなスペースに通された。

 床には薄いマットと毛布、そしてダンボールで仕切られた壁。


 ダンボールの向こう側から、小さな咳が聞こえた。誰かが横になっている。


「ごめんね、隣……私、咳ひどくてさ……」


 女の人の声だった。


「いえ……大丈夫です」


 奈緒が返すと、また小さな沈黙が戻った。


 そのまま数時間が過ぎ、夕方になるとスタッフが紙皿に盛った白粥を配ってくれた。


「温かい……」

 ミユキがぽつりと呟く。


 それは、ほんのりと塩味のきいた、やさしい味だった。


 その夜、奈緒は眠れなかった。

 ダンボールの壁の向こうから、時折、小さな寝息と咳が交互に聞こえる。


 こんなにも近くに人がいるのに、その姿は見えない。

 名前も、顔も、知らないまま、同じ時間を過ごしている。


 ──わたしも、誰かにとってはこうして、名前も知らぬ誰かだったのかもしれない。


 それでも、ここには、人の気配がある。


 奈緒はそっと手を握りしめた。


 温もりが、ほんのすこし、残っていた。

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