第14話『窓を開けても、風は入ってこなかった』

 冷蔵庫の中の卵が、あと一つになっていた。パックの端にくっついた殻の破片が気になって、奈緒はひとつひとつ指先で拭った。朝食というほどでもない、目玉焼きを作ろうと思ったが、皿を用意する前に火を止めてしまった。


 いつものように、スマホのアラームは鳴らなかった。設定した覚えもないし、鳴らす理由もない。ただ「朝が来た」と思える基準が、いつの間にか“外が明るいかどうか”になっていた。


 奈緒はフローリングに腰を下ろし、リビングの窓を見つめた。レースのカーテン越しに薄い光が差している。


 ──今日は、少しだけ空気を入れ替えよう。


 そう思って立ち上がり、窓の鍵を回す。重たい音を立ててサッシが開いた。ひやりとするかと思ったが、空気は動かなかった。


 車の音もしない。鳥の鳴き声もしない。むしろ、外のほうが静かだと思うほどだった。


 「……風、ないなぁ」


 つぶやいた声が、室内にだけ響いた。


 ベランダに出る気力はなかった。洗濯物も干していないし、サンダルも片方だけ埃をかぶっていた。奈緒は窓際に椅子を引き寄せて、そのままぼんやりと外を眺めた。


 見えるのは、向かいのマンションの白い壁と、植え込みの一部だけ。たまに誰かが通る音がすれば、それは確かに“外”の気配だろう。でも、今日はそれすらもなかった。


 ──なんでこんなに、何も起きないんだろう。


 胸の奥に、ぽつんと泡が浮かぶような感覚。何かをしたい、というわけではない。ただ、このまま何もないまま日が暮れていくことへの、やりきれなさ。


 スマホの通知欄を確認する。広告ばかりで、人の名前はひとつもなかった。


 ──たとえば、風が吹いたら。

 ──たとえば、洗濯物が揺れたら。

 ──たとえば、だれかの声が聞こえたら。


 何かが変わる気がしたのに。


 風が吹かない窓の外を、奈緒は何度も見直した。カーテンすら揺れない静止画のような光景。まるで、世界の時間が止まったみたいだった。


 ふと、昔の記憶が浮かぶ。


 小学生のころ。夏休みに祖母の家で過ごした日。朝の涼しさと、畳の匂い。風鈴の音がチリンと鳴って、祖母が「今日は風が気持ちいいね」と笑った。


 ──あの頃の風は、確かに“存在していた”。


 今、この窓からは何も入ってこない。風すら、もう奈緒の居場所を知らないかのようだった。


 お腹が鳴った。が、特に食べたいものはなかった。


 インスタントのスープにお湯を注ぐ。あのポットも、最近は中身がぬるい。沸かすのも面倒で、水道水を少しだけ温めて、それで済ませた。


 カップを持って窓辺に戻る。スープからはほとんど湯気が立たなかった。


 「……いつからこうなったんだろう」


 誰に聞くでもなく、呟く。


 日々は繰り返している。だが、その繰り返しに“変化”がない。だからこそ、奈緒は今日という日も昨日と同じように生きて、そして──誰にも気づかれずに、時を過ごしている。


 窓を閉めた。


 また、重たい音がした。


 閉じた瞬間、奈緒は小さく肩をすくめた。音が思ったよりも大きく、自分でも驚いたのだ。


 「……うるさいな、もう」


 だが、それは自分の存在がまだここにあるという証にも思えた。


 カーテンを引き、カップをキッチンに置いた。テレビはつけない。音楽もかけない。今日も、静かな時間がゆっくりと流れていく。


 風が吹かなくても、奈緒はまた明日も、窓を開けるのかもしれない。


 変わらないことに、抗うでもなく、委ねるでもなく。


 ただ、“今日”を少しでも違う“今日”にしようとして。


 奈緒は、また部屋の片隅で、ひとり分の午後を過ごしていく。


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