第8話『カップ麺の蓋は、ゆっくりと閉じた』
買い物に行く気力が、今日も湧かなかった。
冷蔵庫の中は、もうずいぶん前から静かだ。
奥に眠る漬物のパック、結露の滴るペットボトル、萎びたにんじん。
そして、手前に置かれた、空っぽに近い卵パック。
どれもが「今日は使われないだろう」とわかっている表情をしている。
奈緒は扉を閉め、棚を開けた。
その中に、残っていた。
──カップ麺。
味噌味。安売りで買った5個セットのうち、最後のひとつ。
手に取ったとき、なんとも言えない感情が胸の奥をよぎった。
空腹はあった。何かを食べたいとは思っていた。
でも、料理をする元気はなかった。
カップ麺は、ただ「お湯を入れて待つだけ」で済む、数少ない“妥協”だった。
キッチンに立ち、電気ケトルに水を入れる。
以前、お湯が沸かなかったあの日を思い出して、不安になりつつもスイッチを押す。
──今日は、音がした。
ごぉ、と低く鳴って、湯気が上がり始めた。
奈緒は、空のカップを開けた。
乾いた麺と、粉末スープと、具のかけらたち。
それを見下ろして、なんとなく胸の奥が空っぽになった。
これを、誰かと分け合うことはない。
誰かが「ちょっと味見させて」と箸を伸ばしてくることもない。
ただ、自分が一人で、それを食べるだけ。
「いただきます」という言葉すら、今日は浮かばなかった。
お湯が沸いた。
奈緒は、湯を静かに注ぎ込んだ。
麺の上に湯が広がっていく。
香りが立ち上る。安っぽく、それでも懐かしいにおい。
ふと、過去の記憶がよみがえった。
学生時代、夜中に友達と食べたカップ麺。
鍋を囲んだあと、なぜか〆に「カップ麺食べようぜ」と笑いながらコンビニに走った夜。
誰かと一緒に食べるというだけで、あの味は不思議と特別なものに変わっていた。
けれど今、目の前にあるカップ麺は──ただの、食事未満の何かだ。
蓋をゆっくり閉じる。
箸で軽く押さえて、きっちり密閉する。
3分。
そのあいだ、スマホを手にした。
通知はなかった。
レシピアプリの広告がひとつだけ出ていた。
「5分でできる、本格ラーメン」
──いや、今はその5分すら、遠い。
タイマーを見て、3分が過ぎた。
蓋を、そっと開ける。
湯気がふわりと上がった。
立ち上るその白い蒸気が、奈緒の頬に当たって、ほんのりと湿らせた。
それを見て、「人のぬくもりって、こんな感じだったっけ」と思った。
熱気だけが、触れてくる。
箸を取り、麺をすくう。
啜る音が、部屋に響く。
味は──しょっぱかった。
いや、しょっぱいだけだった。
それでも食べ続ける。
今日の食事は、これしかない。
途中で、ふと箸を止めた。
自分が、ひとりで食事している姿が、ふいに客観的に見えてしまった。
狭い部屋、薄暗い照明、ワンピース姿のまま、すっぴんで、うつむいて麺を啜っている女。
──ああ、これは「寂しい」の完成形だな。
そう思ってしまった自分に、苦笑が漏れる。
だけど、その笑みすら、誰にも見せる相手はいない。
麺を食べきり、スープも半分ほど飲んで、箸を置いた。
そして、冷めきったその容器に、ふたたび蓋をかぶせた。
湯気はもう立っていない。
ふたがぺたりと落ちて、音もなく閉じられた。
今日という日も、こんなふうに終わっていくのだろう。
ゆっくりと、確かに、何も起きずに。
カップ麺の蓋が閉じるように。
奈緒の心もまた、ゆっくりと音を立てずに閉じていく。
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