第7話『スリッパの裏、誰の足跡もない』

床が、冷たかった。


 春の終わり、天気は悪くなかったが、部屋の中には風の流れがなかった。

 昨夜、毛布を肩までかけて眠ったはずなのに、目覚めたときには足先が冷えていて、くしゃみがひとつだけ出た。

 それを誰かに指摘されることも、気遣われることもない。


 奈緒はベッドから降り、ぺたり、と床に素足をつけた。

 そして、何気なくスリッパを履いた。

 毎朝の動作。それ以上でも以下でもない。


 ──そのとき、ふと思った。


 「このスリッパの裏って、ずっと汚れないままだな」


 茶色い無地のスリッパ。三年前にホームセンターで買ったもの。

 まだ破れていないし、ヘタってもいない。

 だが、裏を見てみると、不自然なほど“きれい”だった。


 玄関から外に出ることがない。

 部屋の中だけで過ごす時間が長くなった今、スリッパの裏はどこにも擦れず、どこも踏まない。

 まるで新品のように、底がまだ“使われていない顔”をしていた。


 奈緒は、それをじっと見つめていた。


 このスリッパは、何も知らない。

 彼女の生活を何も“記録していない”。

 台所の床も、ベランダの手前も、どこにも足跡は残していない。


 誰のところにも行かず、誰ともすれ違わず、誰も踏まなかった。

 スリッパの裏は、それを証明していた。


 「……なにか、変だね」


 そう呟いた声も、スリッパも、ただ空気の中に溶けていった。

 奈緒はそれを履いたまま、キッチンへ向かう。

 今日は何も予定がない。

 いや、予定のある日など、もうしばらく来ていない。


 冷蔵庫を開ける。

 目についたのは、最後の卵。

 そして残り半分になった玉ねぎ。


 「オムレツにでもするか……」


 自分でつぶやいた声が、予想よりも大きく響いて、奈緒は肩をすくめた。

 この部屋には、音の“反響”がある。

 何かを口にするたび、自分の声が“ひとりきりだ”と証明されるようで、いやだった。


 卵を割り、玉ねぎを炒める。

 味は、覚えていない。

 食べたことは覚えているが、「おいしい」とか「足りない」とか、そういう感想がどこにも浮かばなかった。


 朝食を終えたあと、奈緒は掃除機をかけた。

 週に一度。曜日感覚を保つための、数少ない“生活の目印”だった。

 でも、今日は違った。

 掃除をしても、ホコリの量が少なすぎた。


 人が来ない部屋。

 自分しか踏まない床。

 どこもかしこも、時間が止まっているように、きれいすぎた。


 「動いてないってことだよね、私が」


 奈緒は、掃除機のスイッチを切りながら、自嘲気味に笑った。

 それは「何もしない生活」の証明だった。


 午後、ベランダに出てみた。

 洗濯物は干していない。

 ただ、空気を感じたかった。


 ベランダの床に、誰かの足跡がついているわけもなく。

 風の吹く先に、手を伸ばしたくなるような希望もなかった。

 ただ、遠くの音が聞こえた。


 子どもが遊ぶ声。

 自転車のブレーキの音。

 どこかの部屋から漏れてくるテレビの音。


 そのすべてが、自分の“外側”だった。


 奈緒は、スリッパを脱いで、裏をもう一度見た。


 何も変わっていなかった。

 まるで、「どこにも行っていない」ことを証明するように、そこには跡がなかった。


 ……昔のことを、少しだけ思い出す。


 会社勤めをしていたころ。

 帰ってきた夜、スリッパの裏にアスファルトの砂がついていた。

 それを見ながら、「今日も外に出たな」と、なんだか“頑張った気分”になったことがある。


 でも今は──

 どこにも行かず、何も踏まず、何も汚れない。

 それは“清潔”ではなく、“無菌”という名の孤立だった。


 奈緒は、スリッパをゴミ袋に入れようかと一瞬考えた。

 でもやめた。

 代わりはある。けれど、このスリッパは「何も踏まなかった記録」そのものだった。


 だったら、せめて、もうしばらく履こうと思った。


 誰にも踏まれず、誰も踏まず。

 足跡のない日々を、今日もまた一歩ずつ、歩いていくしかなかった。


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