第2話『パジャマのまま、昼が終わる』

時計の針が、午後三時を指していた。

 部屋の中には、それに気づく者がひとりだけ。

 奈緒は、まだパジャマのまま、薄手のカーディガンを羽織って、座椅子に沈んでいた。


 今日が何曜日か、すぐには思い出せなかった。

 カレンダーはある。けれど、もう何日も前からめくられていない。

 壁に貼られた紙の中で、季節だけが進んでいく。


 テレビは、まだつけていない。

 窓の外では、相変わらず雨が降っている。

 それでも、昼の明るさは感じる。

 カーテン越しに滲んでくる光は、まるで体温のない呼吸のように、部屋をじわじわと満たしていく。


 奈緒は、机の上に置いたマグカップを見た。

 中身は、ぬるくなったインスタントコーヒー。

 飲もうと思って淹れたはずなのに、一口も口をつけないまま、時間だけが通り過ぎていた。


 パジャマのまま、髪もといていない。

 けれど、外に出る予定も、誰かと会う予定もない。

 だから、これでいいのだ──と思いたかった。


 スマホを手に取り、通知を確認する。

 なにもない。

 LINEも、メールも、SNSも、すべて“無風”だった。

 それが、もはや当たり前のことのように、心は動かない。


 いや、動かないふりをしているだけかもしれない。


 奈緒は、立ち上がってキッチンに向かう。

 昼食を作るつもりだった。でも、冷蔵庫の中に、使える食材はなかった。


 あるのは──

 少ししなびたキャベツの芯。

 残り一本になったウィンナー。

 期限が二日前に切れた納豆。

 そして、食べきれないまま硬くなった食パン。


 「……まあ、納豆いけるか」


 そう言いながら、奈緒はレンジで冷やご飯を温め、納豆をかき混ぜて茶碗にのせた。

 それだけで、昼食は完成する。


 食卓につき、ゆっくりと箸を動かす。

 納豆は、まだ大丈夫だった。匂いは強いが、むしろ安心する。


 食べながら、奈緒はぼんやりと天井を見た。

 何かを考えているわけでもない。

 ただ、視線を落としたくなかった。

 視界の中に、積まれた段ボールがあるからだ。


 それは、去年の春にまとめた「退職後にやろうと思っていたこと」の残骸だった。

 資格の本。英語の教材。ジムに申し込むための案内資料。

 そして、始められなかったまま、封も切っていない手芸キット。


 あれから一年が経った。

 何も手をつけないまま、すべてはそのまま、部屋の一角で沈黙している。


 「やればよかったのかなあ」


 ひとり言のようにつぶやいて、奈緒は苦笑する。

 いや、やらなかったのではなく、“できなかった”のかもしれない。

 動き出すだけの気力が、どこかにぽっかり穴を空けたまま、戻ってこなかった。


 奈緒は、ご飯を半分残したまま、箸を置いた。

 食欲がないわけではない。

 ただ、“満たす理由”がないだけだった。


 雨はまだ降っていた。

 時計の針は三時半を回った。

 だが、今日も奈緒は外に出ない。


 そもそも、外に出て“なにか”があるだろうか。

 カフェも飽きた。買い物も必要ない。

 映画館は遠いし、美術館は雨の日に行くには重たい。

 誰かを誘う相手もいない。

 いや、誘ってまで何かしたいと思える日も、もう長いこと訪れていない。


 人との関係が途切れていくのは、一瞬だった。

 気づけば、連絡はしなくなり、されなくなり、それきりだ。


 中学の同級生。

 大学の友人。

 職場の後輩。

 みんな、どこかでちゃんと生きているのだろう。


 ──でも、自分は?


 「わたしは……ちゃんと、生きてる?」


 言葉にしてみても、答えは出なかった。

 ただ、部屋の中の湿気が、じわじわと体に染みこんでいく気がした。


 そのとき、玄関でまた音がした。

 郵便受けにチラシが落ちる、乾いた音。

 奈緒は立ち上がり、スリッパをひきずる音をたてながら向かう。


 中に入っていたのは、今度は不動産の広告だった。

 「都心から一駅、孤独を癒す静かな住まい」

 という見出しが躍っている。


 “孤独を癒す”という言葉が、奈緒の胸をほんの少しだけ刺した。


 それは、まるで「あなたは孤独ですよね」と言われているような気がしたから。


 ──癒されたかった。

 でも、癒されたいと願う自分を、どうしても好きになれなかった。


 奈緒はチラシをくしゃりと丸め、またゴミ箱に落とした。


 床に戻ると、膝を抱えて座る。

 部屋は静かだった。

 雨の音だけが、遠くで続いている。


 パジャマの袖に、小さな染みができていた。

 納豆のたれが飛んだのだろう。

 その染みを見つめながら、奈緒はゆっくりとつぶやく。


「洗濯……明日にしよっか」


 誰に言うでもなく。

 誰に聞かせるでもなく。

 その声さえも、ただ部屋に吸い込まれていった。


 そして、今日の昼は──

 パジャマのまま、そっと終わっていった。


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