第1話『雨の音と、卵焼き』

雨の音が、ずっと続いていた。

 ぴちゃぴちゃと、屋根を打つ音。窓を這う音。排水管を伝う音。

 まるで世界が、ひとつの洗面器の中に沈んでいるような、そんな日だった。


 奈緒は、その雨の音を背景に、黙々と卵をかき混ぜていた。

 朝六時。目覚ましのベルは鳴らなかったが、体内時計は正確だった。

 静かに布団を抜け出し、冷えた床の感触に肩をすぼめながら、台所へ。

 電気を点けると、キッチンが白く光り、ひとりきりの朝がはじまる。


 卵は一個だけ。冷蔵庫の中には、あと二つ。

 期限は明日まで。今日一つ使っても、あと一日分。問題ない。


 ボウルに卵を落とし、割り箸で混ぜる。音はしない。

 だが奈緒には、この無音が落ち着く。

 誰かに声をかけられることもなく、ただ“準備”が進んでいく感覚。

 この感覚だけが、「自分が存在している」という実感だった。


 フライパンを熱し、油を引く。

 じゅっ、と少しだけ音がして、卵液を流し込む。

 すぐに火を弱め、折り返す。巻いて、また流す。

 何度かの工程ののち、小ぶりで甘い卵焼きがひとつ、完成した。


 皿に乗せた卵焼きと、インスタントの味噌汁、昨日の残りのごはん。

 それをちゃぶ台の上に並べ、奈緒は正座した。


「……いただきます」


 ひとりきりの声は、湿った部屋に吸い込まれていく。

 だが、それでも言わずにはいられなかった。

 この一言を省くと、もっと何かが消えていく気がしたから。


 テレビはつけない。スマホはサイレントモードのまま。

 時計の針だけが、かすかに時間を刻んでいた。


 卵焼きは、甘かった。

 味噌汁は少し薄かった。

 だが、それがどうしたというのだ。

 文句を言う相手もいなければ、褒めてくれる人もいない。

 この食事はただ、胃の中に消えていくだけだった。


 ……でも、ちゃんと美味しかった。

 奈緒は、小さく、笑った。


 ふと、窓の外に目をやる。

 雨粒がガラスを伝い、軌跡を描いていた。

 車の通る音。小走りの足音。誰かの咳。傘がぶつかる乾いた音。


 人々は“生活”していた。

 だが、その中に奈緒の姿はない。

 彼女はここにいて、部屋の中にいて、世界から切り離されたように、黙って卵焼きを食べていた。


「……あの人、元気かな」


 口をついて出たのは、十年前に別れた恋人のことだった。

 もう顔すら思い出せない。

 でも、雨の音を聞いていると、ふいに思い出すことがある。

 当時も、よく雨が降っていた。

 彼はいつも、傘を持たなかった。濡れたまま笑っていた。

 そして、奈緒を抱きしめながら、何かを囁いた気がする。


 けれど──その言葉も、もう思い出せない。


 思い出せないものばかりが、日々の中に堆積していく。

 記憶は薄れていくが、部屋の中の埃のように、どこかに必ず“居残る”。


 奈緒は食事を終えると、ゆっくり立ち上がった。

 流しに食器を運び、淡々と水で流す。洗剤は少しでいい。

 泡を落とし、皿を伏せて、タオルで手を拭いた。


 そのとき、玄関の郵便受けがカタンと音を立てた。


 誰からだろう──と一瞬思ったが、期待するまでもなかった。

 開けてみれば、チラシが一枚。

 葬祭場の案内。

 「おひとり様向け 生前予約も承ります」

 と赤い文字で書かれている。


 奈緒は、それを無言で畳み、ゴミ箱へ投げ入れた。


 外の雨は止みそうにない。

 今日も家から出ることはないだろう。


 でも、それでいい。

 別に、誰に会いたいわけでもない。

 誰に必要とされたいわけでもない。

 それはもう、ずっと昔に諦めた。


 部屋に戻り、ちゃぶ台の横に座り込む。

 スマホの画面を開いても、通知はゼロ。

 何かをつぶやこうと、SNSの投稿欄を開いたが、文字は浮かばなかった。


 何を言っても、届かない。

 何を言われても、返す言葉がない。


 結局、スマホを伏せて目を閉じた。


 静かだった。

 ただ、雨だけが──世界のどこかで、まだ降っていた。


 ……そういえば、と奈緒はふと思い出す。

 昔、父親が言っていた。


 「雨の音ってのはな……静かに心を壊す音なんだぞ」


 当時は意味がわからなかった。

 でも、今は少しだけ、その言葉の意味がわかる気がする。


 壊れてはいない。

 でも、たしかに、何かが欠けていく音がする。


 雨が、静かに、今日を溶かしていく。

 明日にはきっと、また違う音がするのだろう。


 だけど、今日のこの音は、今日しか聞こえない。


 奈緒は、ただ目を閉じていた。

 世界の中で、誰にも触れずに、誰にも触れられずに──

 卵焼きの甘さだけを、まだ舌の奥に残したまま。

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