第三章:仮面の胎児
木でできた礼拝堂の扉はほぼ腐り落ち、片側の蝶番が外れていた。ギィ、と軋んだ音を立てながら、扉が外れないようにゆっくりと開く。
石造りの十字架に無数の木製ベンチ。そのほとんどに赤黒い染みが付き、床には布の切れ端が落ちている。中央には、無数の顔が浮かび上がる、芋虫のような石像が祀られていた。
「……ここ、だな」
夢路が礼拝堂に足を踏み入れた瞬間、複数の声が一斉に、不協和音のように礼拝堂内に響き渡る。
――嘲笑。
――慟哭。
――絶叫。
――嗚咽。
それらが重なり、混ざり、4人の脳内を支配する。
「……っ……!」
炎城寺が耳を押さえた。
「なにこれ……人間の声、全部……混ざって……!」
「こ、これは……っ」
八雲が一歩引いた。震える声が洩れる。
「夢路さん……っ、な、なに、これっ……!」
その問いに夢路が答えることはなかった。
八雲は立っていられず、その場に膝をついた。
炎城寺は歯を食いしばり、尻餅をついて後ずさる。
鯖江は短く呻いたきり、頭を抱えて蹲った。
ただ一人、夢路だけは、中央の祭壇のさらにその先の闇をじっと見据えていた。
そして――“それ”は現れた。
ぬるり、と。
闇の奥から這い出してきたそれは、重たく湿った肉の塊だった。
皮膚の表面に、無数の人間の顔が張り付いている異形のナメクジ。
それらは、泣き、笑い、歪んで、喚いていた。
一つ一つの顔は、異なる感情を表現している。悲しみ、怒り、恐怖、苦痛、恍惚、絶望。
それぞれの顔が個別の人格を持つかのように、独立して蠢いていた。
「うわあああああああああっ!」
その姿が見えた瞬間、八雲悲鳴を上げる。
唐音は言葉を失い、両手で頭を抱える。視界がぐにゃりと歪む。思考が逃げ出し、言語が意味を失っていく。
鯖江は、硬直したまま腰を抜かした。
「……チャコタ」
夢路が、深淵の怪物の名を短く呟いた。名を知っていたのではない。夢と象徴──無意識の世界に棲む彼の本能が、その名を告げたのであった。
「これが……神に成れなかった胎児。犠牲の上に築かれた、偽物の神か……」
その言葉に反応できる者は誰もいなかった。
八雲の視界は酷く歪み、まるで拡大されすぎた双眼鏡のように映る。
唐音は瞳を見開いたまま、ブツブツと呪詛のような独り言を呟いている。
鯖江はひくひくと喉を痙攣させ、何かを叫ぼうとしていたが、声にならない。
正気を失った彼らには、祈る神などどこにもいなかった。
「だからやめようって言ったじゃん!」
八雲は叫ぶなり、立ち上がる。振り返ることもなく、ただ闇の中へと逃げようと、ただ本能に従って駆け出そうとしていた。
「そんなこと言ったならやめろよ!!なんだよこの状況!!ここは一体どこなんだよ!!」
幸か不幸か、鯖江はここに来るまでの記憶を失った。彼の叫びは、哀れなことに、誰にも届かない。
「……監視されてる……誰かが裏切ってる……」
唐音は同じ言葉を強迫的に繰り返す。指先を噛み、眼はぎらぎらと光を失い、まるで何かに取り憑かれたように、近くにいた鯖江をユラリと見る。
「……鯖江、お前のせいか……!!」
次の瞬間、彼女の拳が宙を裂いた。
「どうしたんです、唐音パイセン?」
鯖江が振り向いた瞬間、すんでのところで拳が空を切る。
「ふぁ!?」
目を剥いて叫ぶ鯖江の声。だが、唐音の拳は止まらない。
「くそっ、外したか……!」
「おれまた何かやらかしましたか!?誰か説明してくれよぉ!?」
混沌が鯖江を襲う。ただただ困惑する彼は、必死に唐音の攻撃を捌くしかなかった。
「おい、八雲!落ち着け、単独行動はまずい!」
夢路は、逃げ出そうとする八雲に手を伸ばし、強く肩を掴んだ。
だが、八雲の視線は虚ろで、焦点が定まっていない。彼の手には、少し潰れた大福が握られていた。
「夢路……さん、邪魔しないで!この大福も邪魔……全部要らない……どこかに……捨てなきゃ……!」
八雲の手が放り投げる動作に入った瞬間、夢路が叫ぶ。
「本能に従うべきだとは思うが、その大福は、化け物に対抗する唯一の手段だ!投げるなら怪物の口に投げ入れろ!!」
その言葉に八雲の動きが止まる。混乱の中で、わずかに理性が顔を出す。
夢路の目は真剣だった。その強い意志が、八雲の中の何かを引き留める。
「そ、そんなこと言われても……!」
迷い──大福を捨てようとした腕が、わずかに緩む。だがその刹那、恐怖が再び波のように八雲を襲う。
夢路の目を見た瞬間、その視線の奥にある“信頼”が、かえって恐ろしく思えたのだ。
「……夢路さんは、おかしいんだ……もう、誰にも、傷つけられたくない……!」
その言葉とともに、反射的に手から離れた大福が──夢路へと投げつけられた。
「ちょっ……!」
夢路は咄嗟にそれを避け、肩を反らす。
そのときだった。
チャコタの異様に長く伸びた顎が、避けたその隙を突いて、夢路の左腕に喰らいつく。
「ぐああああああっ!!」
パスタを啜るかのように、チュルチュルと夢路の腕が吸われていく。
力を振り絞り、なんとか引き抜くことに成功するも、腕は完全に砕かれていた。
「……あ……」
崩れるようにその場にへたり込んだ八雲の瞳に、夢路の真っ赤に染まった腕が映る。
むせかえるような鉄の臭い。声にならない悲痛の叫び。
「オレは……何てことを……」
恐怖の霧が晴れ、八雲の意識は、酔いが醒めたかのようにはっきりしていた。
一方、鯖江は、足元で転がる白い物体を見つめていた。血の臭いが鼻を突く中、八雲から投げられたその柔らかな塊は、広がりすぎた思考を止めるには十分だった。
「……大福……?」
白く、丸く、ふっくらとした甘味。鯖江はそれが“鍵”だと直感的に理解する。
「ゆ……夢路!!!なんかわかんねーけどこの大福が鍵なんだな???」
叫びながら、大福を拾い上げる。
「おれは何すればいい!?教えてくれ、夢路!!」
夢路は、痛みに顔を歪めながらも、目だけは鯖江を見据えていた。
「とりあえず……ナメクジの口にぶちこめ!いいか、人間の顔の方だぞ……!そっちの方が、口が……小さいからな……!」
「おうよ、任せろぉ!」
鯖江は無我夢中で叫び、駆け出した。
その瞬間、チャコタが再び蠢く。幾相もの顔が同時に口を開き、絶叫にも似た嗤いをあげながら、ずるりと前に躍り出た。
「こっち来てんじゃねぇえええええっ!!」
恐怖を振り払うように、鯖江は叫び、構える。
怪物は、夢路のように腕や足を喰らい尽くさんと、苦悶の表情を浮かべた皺だらけの男の顔が、大きく口を開けて鯖江へと迫る。
「今だ!!」
鯖江は、大福をその口に、力の限り突っ込んだ。
形を失った大福は、怪物の喉に纏わり付き、呼吸を阻害した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます