第一章:廃墟の入り口

 蔦に覆われた建物の輪郭が、月明かりに照らされ、浮かび上がる。かつて人々が祈りを捧げたというその宗教施設は、今やひび割れて、いまにも崩れ落ちそうだった。鉄門扉は錆びて軋み、庭には雑草が生い茂っている。


「ここが、噂の“人面ナメクジ”の施設か……本当に出てきそうな雰囲気だ……」

 メンバーの中で最も年上の夢路志遠がぼそりと呟いた。黒い瞳が建物の奥を見つめている。


「ほんとにいるんですか、そんな生き物……」

 飼育員の八雲要が、警戒心と好奇心の間で揺れているような声を出す。


「言うてナメクジだし、遅いなら逃げられるっしょ~」

 そう笑うのは、青髪の青年、鯖江勘太。彼の口ぶりには余裕があったが、視線だけはどこか怯えている。


「人面のナメクジなんて、妖怪でもなかなか聞かないわよ。本当にいるのかしら?」

 炎城寺唐音がイヤホンを首から外し、周囲の音に耳を傾けた。ギターボーカルの彼女は、いつもと同じ調子で語っていたが、目の奥には僅かな警戒の色が浮かんでいる。


 夢路が薄く笑う。

「大量の人間の顔がついたナメクジなんて……無意識が生み出した幻覚だよ。馬鹿馬鹿しい話だ」


「だといいんすけどね~」

 鯖江が肩をすくめた。


 だが──鯖江が見つけた情報は、それを否定していた。施設には確実に何かがいる。ネットで拾い上げた断片的な記録と、自身がこれまでに経験した、非現実的な事象の数々から、全員がそう直感していた。


「で、入るの?」

 八雲が一歩引きながら問いかける。


「ここまで来て『やっぱやーめた』はないっしょ~」

「そうね。行くべきよ」

「俺の足は入りたくないって言ってるけど……まあ、任せるよ」

 4人はゆっくりと廃墟の中へと足を踏み入れた。

 

 扉の先では埃が舞い、真っ暗な空間を灰色に染め上げている。

 ガラス片が床に散らばり、探索者が足を踏みしめるたび、パキリと乾いた音を立てた。


 そのときだった──何かの声がした。

 何十、何百もの人間の声が重なったような、呻きと叫びと悲鳴。怒りと絶望が混じり合い、濁った空気に溶け込んでいる。

 その場にいた者たちの背筋を、冷たいものが走った。


「……酷い断末魔みたいな声がしたわよ?」

「まるで……色んな感情がごちゃ混ぜになったみたいな鳴き声だったっす」

「俺も聞こえたよ。これは……集団幻覚かな。無意識が警告しているのかもしれない」


「え、えぇ……夢路さんもです?」

 声が聞こえたのは、この場にいる全員ではなかった。ただ一人、八雲だけがこの場で何も聞なかった。


 八雲は夢路のことを信頼していたので、大層驚いた。常日頃、彼は『現実で見たもの以外は信じない』と口癖のように言っているからだ。


「聞こえなかったのは八雲――君だけのようだ。……何か意味があるのかもしれないね」

 彼らの背後で、扉が静かに軋んだ。後戻りはもうできない。


「……どこから回ろうか」

 八雲が振り返って、貼られた古びた地図を指差した。

「資料室」「倉庫」「礼拝堂」――3つの選択肢。


「声のした礼拝堂は……後回しにしよう。俺の無意識がそう言ってる」

「そっちがボス戦って感じするしな~」

「……だね。どうせ死ぬなら、最後がいいわ」

 彼らは顔を見合わせ、静かに頷きあった。


 この時、それが冗談ではなくなる可能性があることを、全員が本能的に理解していた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る