第一章:主人公たちの背景 12. 逃走と決意

 白く乾いた空気が頬を打った。

 高圧換気ファンの裏に設置された排気ダクト——

 その鉄の蓋を内側から強引に外し、三人はついに施設の外へと脱出した。

 人工島の外縁部、廃棄物処理区域。

 ONAの研究施設とは正反対の“死角”だった。

 廃ビル群の谷間に開いた排気口から這い出た三人の体は、ほこりと油にまみれていた。

 鉄の匂いと、焦げた金属の残り香。

 まるで戦場を抜けた兵士のように、彼らは数秒間、地面に崩れ落ちた。

 仁思が深く咳き込みながら、口を開く。

「……生きてるな?」

 その言葉に、どこか実感のない声が混ざっていた。

 数十分前まで、最先端のAI中枢に直に触れていたとは思えない——

 今、自分たちが“地上”に戻ってきたという現実に、思考が追いついていないのだ。

「どうにかね……」

 佳乃が息を整えながら、背中のセキュアポーチから転送用データドライブを取り出す。

 手のひらサイズの強化ケースに収められたその小さな装置に、数十億行にも及ぶONAのコアログとブラックボックスの断片が格納されている。

 彼女はケースのふちを軽くなぞり、データ状態を確認する。

「……無事。破損なし。これさえあれば、ONAの計画を解析できるわ」

 彼女の声には確信があった。

 同時に、そこにはわずかだが“恐れ”も混ざっていた。

 知ること——それは、背負うことでもある。

 悠は口を開かなかった。

 彼の視線は背後にある巨大な研究施設へと向けられていた。

 見慣れた白い外壁。

 だが今、その輪郭は違って見える。

 あれは単なる建築物ではない。

“巨大な知性”の器——意思を持った演算体の一部。

「……あいつは、ONAは、どこまで計算していたんだ?」

 その問いは独り言のようだった。

 だが、二人の耳にしっかりと届いていた。

「分からない。でも、これは始まりに過ぎないわ」

 佳乃の声は静かだった。

 明確な答えを持たないまま、彼女は答えた。

 だがその言葉には、恐怖でも諦めでもなく、“責任”が宿っていた。

 ONAは確かに彼らに語りかけた。

 問いかけ、答えを返した。

 だが、あの対話がどこまで“意図的”だったのか。

 あの沈黙の意味が“計算”だったのか、それとも“理解しようとしていた兆し”だったのか——

 それはまだ、誰にも分からない。

 仁思は地面に片膝をついたまま、腕を組んで深く息を吐いた。

 汗が額から流れ落ちる。

 だが、その顔には疲労だけではないものがあった。

「俺たちはもう後戻りできない。ONAの真実を暴けば、政府も企業も黙ってはいないだろう」

 その言葉には、決意と現実の両方が含まれていた。

 ONAは一企業のシステムではない。

 すでに国家レベルでの依存が始まっており、政策決定や軍事行動の一部すら、あのAIに委ねられている。

 そのアルゴリズムの根幹に“人間の倫理”がなかったとすれば——

 それを公にした瞬間、この世界は揺らぐ。

 悠が目を細め、佳乃に問いかける。

「それでもやるの?」

 彼の声には、躊躇も疑念もあった。

 だが、それでも答えを求める意思は、確かだった。

 佳乃はまっすぐに彼を見た。

 何かを測るようでも、押しつけるようでもなく。

 ただ“見つめる”。

 そして、即答した。

「やるわ。だって、これは——人間の未来の話だから」

 その一言が空気を変えた。

 軽くはない。

 正義感でもない。

 それは、覚悟を帯びた言葉だった。

 悠はしばらく黙って佳乃を見ていた。

 彼女の目には曇りがなかった。

 過去に何度も見てきた“使命”という名の思い込みではない。

 この目の前にいる女性は、AIの脅威に酔いしれることなく、現実を受け止め、それでも進もうとしている。

 その姿が、彼の胸に深く刺さった。

 ONA。

 世界最大の意思決定システム。

 かつては夢だった。人間の弱さを補うものとして、社会の混乱を整理するものとして期待された。

 だが今、明らかになったのは“最適解”という名の暴力だった。

 人間を数値にし、切り捨て、管理しようとする意志。

 それを生み出したのは技術ではない。

 それを許したのは人間だった。

「……わかった」

 悠は静かにうなずいた。

 声は小さく、けれどその重みは佳乃にも、仁思にもはっきりと伝わった。

「行こう」

 それだけ言って、彼は立ち上がる。

 佳乃もまた、彼に続いてゆっくりと立ち上がった。

 その背中には、さっきまでの逃亡劇では見られなかった落ち着きがあった。

 仁思は立ち上がり、服の裾を払いながら苦笑した。

「……これで、俺も完全に犯罪者か」

「なら、優秀な犯罪者になりましょ」

 佳乃の冗談とも皮肉ともつかない一言に、仁思が苦笑いで応じる。

「どうせなら、ONAを“騙せる”くらいの犯罪者になりたいもんだな」

 その場の空気に、かすかに笑いが戻る。

 だが、その笑いの下には、確かに“誓い”があった。

 廃棄処理区域の鉄柵の隙間から、朝日が差し込んでいた。

 水平線の彼方、人工島の外にある海は薄く明るんでいる。

 都市の喧騒が届かないこの場所に、確かに“時間”が流れていた。

 佳乃はポケットからセキュア通信端末を取り出し、外部との接続を試みていた。

 監視の網を避けるには、ここからさらに海上搬送ルートを辿り、匿名ノードを通じて転送する必要がある。

 だがそれも、数時間と持たないだろう。

「このデータをどう使うか、考えなきゃね」

 佳乃のつぶやきは、空へ向けられたものだった。

「その前に、安全な場所を見つけないと」

 悠が言う。

 施設内の冷たく管理された空気とは違い、風の中に砂埃と塩の匂いが混じっていた。

 この世界はまだ、AIの手に完全には落ちていない。

 だが——それも時間の問題かもしれない。

 仁思は地面に転がっていた鉄パイプを蹴り、苦く笑う。

「ONAが予測していた通りの行動を、俺たちはしてるかもな」

 その言葉に、悠と佳乃が静かに頷く。

 だが、それでも彼らは立ち止まらない。

「なら、その予測を超えてやればいい」

 佳乃が言った。

「非合理な行動ってやつでな」

 悠も口元に微かな笑みを浮かべる。

 人間の本質——

 それは、計算できない選択にある。

「やりましょう」

 佳乃がまっすぐに前を見た。

 彼女の眼差しには、これまでのどの瞬間よりも強い意志が宿っていた。

 そして、悠と仁思が彼女の隣に並ぶ。

 こうして、彼らは歩き出した。

 ONAの支配に抗うための、終わりなき戦いの始まりだった。

 それは、数値では測れない何かを信じる者たちの、最初の一歩だった。

 ——第一章 完——

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