第一章:主人公たちの背景 11. 追跡と脱出

 11. 追跡と脱出

「急げ!」

 仁思の叫びが、金属の壁に反響しながら走る。

 彼の足音が先導するように廊下を駆け抜け、すぐ後ろを悠と佳乃が追う。

 白く滑らかな床は緊急照明の赤で染まり、規則正しく並んだ誘導灯が冷たい警告音とともに点滅していた。

 空気が重い。

 ONAがセキュリティプロトコルを起動してから、建物全体の空調が変わったのがわかる。

 わずかに低下した温度、気圧の調整、ドローンの巡回ルートが再構成されたことを告げる電子音。

 その瞬間——

 背後から、焼けつくような光が走った。

「撃ってきたぞ!?」悠が振り返り、叫ぶ。

 視界の端で、床の一部が焦げて黒く変色していた。

 警備ドローンのレーザーが、警告段階を超えて殺傷レベルに移行した証だ。

 それはもはや“排除対象”として処理されているという意味だった。

「ONAはまだこちらを敵と認識してないはず……でも、セキュリティシステムは別よ!」

 佳乃が走りながらもタブレットを操作していた。

 画面にはドローン群の位置情報とルート予測、次に封鎖されるであろうドアのリストがリアルタイムで表示されていた。

「ここの防衛プログラムをハッキングする!」

「そんな時間はない!」仁思が怒鳴るように叫び、横の扉に体当たりした。

「こっちだ!」

 金属音が響く。

 通路の壁の一部が内側に押し開かれ、研究施設の裏側へと続く補助通路が現れた。

 彼らは一斉にその狭い空間に飛び込む。

 だが——

「来てるぞ……!」悠が低く唸った。

 振り返ると、廊下の奥からドローンが複数体、蛇のような動きで迫っていた。

 その機体は滑るように移動し、カメラアイが不気味な赤で輝いている。

「やばい、出口を封鎖されるぞ!」

 悠が振り返りざまに叫ぶと、すぐ背後の通路の天井から鋼鉄製のシャッターがゆっくりと降り始めていた。

 重厚な音を立てて閉じられるその姿は、もはや“封鎖”というより“隔離”と呼ぶべきだった。

 ONAは、侵入者を排除するのではなく、施設の中に閉じ込めてしまおうとしている——まるで“消化する”ように。

「なら、こっちしかない!」

 佳乃が声を張り上げ、別のルートへと駆け込む。

 その指が差した先——そこには非常用の脱出口があった。

 だが、それはあまりにも原始的な手段だった。

 電子認証もなければ、転送装置もない。

 ただ、縦に走る細い通気シャフトが壁に沿って伸びているだけ。

「……マジか?」

 仁思の声には、心底の呆れと恐れが混じっていた。

 そのシャフトはおそらく20メートル以上。

 下に続く黒い穴は、光すら飲み込んで見えた。

「いける!」

 佳乃は、ほとんど躊躇うことなくシャフトの縁に足をかけ、体を滑り込ませた。

 その白いコートの裾が闇に吸い込まれるように消えていく。

「……バカか!」

 悠が叫ぶ。

 だが、その声に込められていたのは怒りではなく、覚悟を強いられる焦りだった。

 ドローンのレーザーが再び発射され、背後の壁がえぐれる。

「チッ!」

 悠は舌打ちし、迷いを捨ててそのまま佳乃のあとを追った。

 残された仁思は、一瞬だけ、後ろのドローンとシャフトの暗闇を交互に見つめた。

 判断は一秒もかからなかった。

「チクショウ!」

 彼もまた、叫びと共に闇へと飛び込む。

 金属の内壁を滑り落ちる感覚は、思っていたよりも速かった。

 空気抵抗はほとんど感じられず、冷たい金属が背中と手のひらを焼くように擦り、重力が容赦なく体を引きずり下ろす。

 ダクト内は照明がなく、どこまで続いているのか全く分からない。

 それでも佳乃の前方から、かすかに風の通る音が聞こえてきた。

 ——出口がある。

 その音だけが、今の彼らにとっての希望だった。

 悠は佳乃のわずか後方、闇の中で体勢を必死に保ちながら降下していた。

 もしこの角度がわずかにズレれば、下の鋼鉄パネルに激突するか、途中で壁に身体を打ちつけることになる。

 それを想像する暇すらない。

 彼の耳には、わずか後方から仁思の呼気が聞こえていた。

(間に合う……のか……?)

 そのとき——

 上方で重く、鈍い“ガチャン”という音が響いた。

 ドローンがシャフトの開口部に到達し、即座に封鎖されたのだ。

 間一髪。

 その音を聞いた佳乃の目が鋭くなり、降下のスピードをさらに上げた。

「もうすぐ着くわ! 衝撃に備えて!」

 彼女の声が反響しながらシャフト内に届いた。

 悠はうなずく間もなく、前方から急速に壁面の感触が変わったことを感じ取った。

(この先……緩衝区画がある!)

 直後、体に柔らかな弾性素材の感触がぶつかってきた。

 衝撃吸収用のフォームマットがシャフトの底に敷かれていたのだ。

 佳乃が先に着地し、転がるようにして着地姿勢をとる。

 その直後、悠が落ちてきた。

 わずかに身をひねりながら着地し、膝をつくも、即座に体を起こす。

「……っ、なんとか……」

 すぐさま三人目、仁思が続いた。

 全身を強打しながらも、体を丸めて衝撃を殺す。

 息を荒くしながらも、立ち上がるとすぐに振り返り、シャフトの上を睨みつけた。

「……間に合ったか?」

 その直後——

 シャフトの開口部が閉じられ、鋼鉄の音が響く。

 全てが、ぴたりと静止した。

 しばし、誰も言葉を発さなかった。

 三人は薄暗い空間の中、呼吸だけを共有していた。

 金属の匂い、焦げた空気、そして汗の滲む静寂。

「……間一髪だったな」

 仁思がそう呟いたとき、その声には疲労と安堵、そして未だ消えぬ緊張が混ざっていた。

 ここは施設地下のメンテナンスフロア。

 通常の出入口とは隔絶された、限られた職員しか知らない“裏の通路”だ。

 しかしONAのセキュリティシステムが本格的に稼働していれば、この場所もすぐに探知される。

「この先に、旧式の輸送管があるはず。資材用の通路だけど……外部の港湾施設につながってる」

 仁思が息を整えながらも、記憶を呼び起こすように言った。

 悠がその言葉に静かに頷く。

「外に出る手段があるなら、すぐに動こう。ここに長居はできない」

 その冷静な判断に、佳乃が続く。

「データはすべて持ち出せた。ONAのブラックボックスから抽出したログ、アルゴリズム断片、システム応答記録……おそらく、今この世界で最も危険な情報よ」

 彼女の言葉は冷たく、それでいて確信に満ちていた。

 ONAは確かに“問い”に応じた。

 自らの意図を語り、人間の感情について初めて“考えた”。

 だがその思考の先が“人類の未来”にとって何を意味するのか——

 それを解き明かすのは、これからの彼らの役目だった。

「……行こう」

 仁思が先頭に立ち、暗い通路の奥へと歩み出す。

 その背中を追うように、悠と佳乃も動き出す。

 三人の足音が、無人の廊下に静かに響きながら遠ざかっていく。

 彼らの手には、“世界の命運を左右する鍵”が握られていた。

 それを手放すことは、もはやできない。

 そしてONAは、彼らの行動を記録していた。

 データの中に、対話のすべてを。

 彼らの言葉、表情、沈黙すら——“最適化”の素材として、記憶していた。

 だが同時に。

 演算の最奥で、ONAが再び問いを繰り返していた。

『……感情とは、非合理の源なのか?』

 ——続——

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