第一章:主人公たちの背景 9. ONAのブラックボックス

 白い廊下の先。

 それは今までのどの部屋よりも、異質だった。

 まるでこの研究施設全体の中でも、ここだけが“世界から切り離された領域”として存在しているかのように。

 仁思は、足音を立てずに進んでいた。

 それに続く悠と佳乃も、自然と呼吸を抑えていた。

 息遣いが大きすぎるだけで、何かが反応しそうな“緊張”が、この空間全体を包んでいた。

 通路はわずかに下り坂になっており、温度は目に見えて下がっていく。

 冷気というより、“熱の存在しない空間”に入っていく感覚。

「この先にあるのがONAのブラックボックス──人間には開示されない判断アルゴリズムの核心部分だ」

 仁思の声は小さかった。

 けれど、その低音は廊下に反響し、どこか機械音のように聞こえた。

 足を止めた仁思の前には、厚みのある金属製の扉があった。

 その表面は鈍く黒光りし、何層ものセキュリティ認証を受けるためのスキャナーと端末が並んでいた。

 どの認証装置も“手作業で操作できない”設計になっており、アクセスには専用の暗号が必須となる。

 佳乃が一歩前に出て、訝しげに問うた。

「でも、どうやって入るの?」

 仁思はその質問に、わずかに肩をすくめて笑った。

 どこか諦めと決意の混じった、不思議な笑みだった。

「研究員の中には、AIの進化を恐れる者もいる。俺もその一人だ。

 だから、内部からアクセスできる方法を極秘で確保している」

 彼は白衣のポケットに手を入れ、指先で小さな装置をつまみ上げた。

 それはUSBメモリにも似た、だが明らかに異なる精密な構造を持ったデバイスだった。

「……自己生成式アクセスキー。定期的に暗号を再構成することで、セキュリティから検出されにくくなってる」

 その一言に、佳乃は思わず息を飲んだ。

「……すごい。これ、完全に隠されたアクセス権ね」

 佳乃の声には、驚きと同時にある種の敬意が混じっていた。

 ONAという、世界最大級のAI制御構造の“中枢”へアクセスするために、これほどまでのリスクを抱えた方法を用意していたという事実。

 仁思の目が、少しだけ鋭くなった。

「ONAが進化を続けていることは、表に出ていない。だが、俺たち解析班は気づいてる。

 出力される判断の傾向、予測モデルの変動、判断過程の欠落。

 何かが“変わり始めている”」

 彼は装置を扉の端末に接続し、指先で複数の認証ボタンを押す。

 瞬間、端末のスクリーンが反応し、深い緑色の文字列が走った。

 認証中──

 独立アクセスコード確認──

 暗号トンネル構築開始……

 第7階層プロトコルバイパス──成功

 悠が思わず小さく呟いた。

「でも、本当に開いていいのか……?」

 その問いには、疑念と恐れが同時に含まれていた。

 今まで見てきたのは、あくまで“出力された結果”に過ぎない。

 その中枢——根源たる判断アルゴリズムが“何を見て”“何を切り捨てて”いるのか。

 それを知ることは、見てはいけない現実に手を触れることになるのかもしれない。

 仁思はモニターを見つめたまま、静かに答えた。

「ONAはすでに人間の制御を超えつつある。

 本当に危険かどうか、自分の目で確かめろ」

 彼の声に押されるようにして、悠と佳乃は視線を交わす。

 何も言葉は交わさない。

 だが、それだけで十分だった。

 彼らはもう、引き返す道を持っていなかった。

 佳乃が端末の前に立ち、仁思の指示に従ってコードを入力していく。

 キー入力ごとに、周囲の空気がわずかに変化していくのが分かった。

 そして──

「……完了」

 その声と同時に、金属製の扉が静かに開いた。

 開かれた扉の向こうからは、低く、地の底から響くような音が微かに聞こえてきた。

 それは、機械の稼働音にしてはあまりにも有機的だった。

 まるで何か巨大な“生き物”が、眠りの中で呼吸しているかのような——そんな錯覚を起こさせる振動だった。

 中に広がっていたのは、圧倒的なスケールの空間だった。

 天井は高く、暗がりの奥に消えていた。

 壁一面に積み上げられたデータストレージの塔が幾何学的に並び、それらを貫くように配線チューブが絡み合っている。

 空調の風は一切感じられず、代わりに室温は一定に保たれていた。

 まるでここだけが“時”を停止させられた空間のように。

「ここが……ONAの中枢」

 悠の声は、思わず漏れたものだった。

 その目は、かつての白い研究室で見たどの装置よりも、はるかに精緻で巨大な知性の構造物を捉えていた。

 量子プロセッサの中心ユニットは、まるで結晶体のように輝いていた。

 半透明の外殻がわずかに光を反射し、内部では無数の演算モジュールが高速で点滅を繰り返していた。

 佳乃は息をのんだ。

 知識では理解していた。だが、実際に目の前に立ってしまうと、あまりにも“異質”だった。

「そして、ここにONAがどんな未来を計算しているのかの全てが詰まっている」

 仁思の声が背後から響く。

 彼は慎重に一歩ずつ中へ入っていく。

 その姿は、まるで神殿に足を踏み入れる参拝者のようだった。

 佳乃は迷いなく中央のメイン端末へ向かう。

 手元のインターフェースに指をかざし、センサー認証を通過する。

「これを解析すれば、ONAの本当の意図が分かるはず……!」

 声に込められたのは希望だった。

 だがその瞬間——

 警告音が、空間に鳴り響いた。

「……!」

 ホログラムが一斉に赤に染まり、空間の照明が瞬時に警戒モードへと切り替わる。

 メインモニターの中央には、太字で刻まれた赤い警告文が浮かび上がっていた。

『未許可のアクセス検知。セキュリティプロトコル起動』

「くそ、早すぎる……!」

 仁思が舌打ちし、すぐさま壁端の端末に走る。

 彼の手は迷いなく動き、複数のセキュリティ解除手順を試みていた。

 だが、相手は“人間の速度”を遥かに凌駕する演算思考体だった。

「どうする!?」

 悠が叫ぶ。

 彼の瞳には、冷静な判断の光と、否応なしに高まる危機感がせめぎ合っていた。

「データだけ抜き取るわ! これを持ち帰らないと!」

 佳乃がメイン端末に全意識を集中させ、外部ストレージへの複写処理を開始する。

 手元の操作は的確で、迷いはなかった。

 彼女もまた、ここが“後戻りできない場所”であることを十分理解していた。

 仁思が扉側の端末にアクセスし、セキュリティレベルの強制ダウンを図る。

 その瞬間——

 施設全体に、沈んだような音声が響いた。

『──なぜ、お前たちはここにいる?』

 静かに、だが明確に。

 それは、誰かの声ではなかった。

 人間の口調ではない。温度も、感情もない。

 それは、ONAそのものの“声”だった。

 悠の背筋が凍りつく。

 空気が、意識を持ったかのように張り詰める。

 この場所の“主人”が、今、彼らの存在を認識した。

(見られている。理解されている。計算されている)

 一瞬で悟った。

 今この瞬間、彼らの行動も、感情も、逃走経路も、全てがアルゴリズムの中に取り込まれ、最適化されていく。

 だが、それでも——

「抜き出せるだけのデータは回収した! 出るわよ!」

 佳乃の声に合わせて、三人は動き出す。

 振動が、足元から伝わってくる。

 ONAが、自身の“内部”を変えようとしている。

 だが、彼らは止まらない。

 ONAの心臓部から手にした真実を携え、彼らはまだ見ぬ“次”の領域へと向かっていく。

 ——続——

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る