最適化された絶望
mynameis愛
第一章:主人公たちの背景 1. 悠の過去
荒涼とした都市の夜は、まるで記憶の底に沈んだ亡霊のように、悠の心を静かに蝕んでいた。ビルの谷間に漂う夜風は、冷たく、乾いている。それでもどこか潮の匂いが混じっているのは、この街がかつて海に面していた名残なのだろう。
空には星ひとつ見えず、代わりに淡いオレンジ色の光が雲を照らしていた。無数の看板と電光掲示が、無機質なコンクリートの壁に反射し、雨上がりのアスファルトには歪んだ鏡のようにネオンが滲んでいた。
悠はその中にいた。古びたカフェの片隅、窓際の座席に身を沈め、擦り切れた木製のテーブルに肘をついていた。店の内装は時代遅れで、木枠の照明には埃が溜まり、壁に掛けられたモノクロ写真には黄ばみが浮かんでいた。けれど、そのくたびれた雰囲気こそが、逆に居心地の良さを醸し出している。客も少なく、店主も余計な干渉をしない。そうした静けさが、悠にとっては何よりの慰めだった。
彼の前には、既に冷え切ったコーヒーカップがひとつ。白磁の表面には、小さな欠けがひとつだけあり、そこからほんのわずかに茶色の染みがにじんでいた。湯気はもう消えて久しく、表面にはうっすらとした油膜が浮いている。けれど悠は、それを飲もうとはしなかった。ただ、両手の指先でそのカップを挟み、じっと動かずにいた。
窓の外を行き交う人々は、誰もが忙しそうに歩いている。コートの襟を立て、スマートグラスで何かを確認しながら足早に通り過ぎる者、イヤホンで音楽に没頭し、世界から遮断されたまま進む者、誰一人として、他者に目を向ける者はいなかった。誰かとすれ違っても、視線が合えばすぐに逸らし、無言で通り過ぎていく。
悠はそんな風景を、まるで自分が透明人間になったかのような気持ちで眺めていた。まるで自分がこの世界の一部ではないかのように。
「違和感」——それが、いつからか彼の中に根を下ろしていた感覚だった。
人と人が出会っても、そこには何も生まれない。表情すら交わさず、ただ目の端に映ったというだけのような関係。
なぜこんなにも皆が急ぎ、何かに追われているように見えるのに、その中に「つながり」というものがまるで存在しないのか。悠には、理解できなかった。
いや、理解しようとしていなかったのかもしれない。
むしろ彼の心には、最初からその概念が欠けていたのだ。
幼少期の記憶は、断片的だ。だがその一片一片があまりに鮮烈で、時折夢の中でもその情景が現れる。
白い部屋——窓のない、無機質で、温度も湿度も常に一定に保たれた密閉空間。壁の一面には半透明の鏡が嵌め込まれていたが、そこに映るのは自分の顔ではなかった。
向こう側に誰かがいて、こちらを見つめているのだと、幼い彼でも直感していた。
部屋には常に静かな音楽が流れていた。クラシックとも環境音楽ともつかない、不気味なまでに感情のない旋律。床には玩具や教材のようなものが並べられていたが、それらの配置は毎日微妙に変化し、その変化に気づけるかどうかを試されているようだった。
その施設は、某企業が極秘裏に運営する研究機関だった。表向きには「児童発達支援施設」と呼ばれていたが、そこにいた子どもたちは、皆例外なく「特異な知能」を持つとされていた。
いずれの子どもにも戸籍は存在せず、親もいない。彼らは生まれながらにして社会から切り離され、ただ「観察対象」として育てられていた。
「感情は、論理の障害になる」
「不必要な接触は、生産性を下げる」
「個は、目的のための器に過ぎない」
繰り返し与えられる言葉。スピーカー越しに響く合成音声。
白衣を着た大人たちは、決して笑わなかった。名前すら名乗らなかった。彼らは常に記録を取り、モニター越しに子どもたちの行動を監視していた。
悠はその環境に、最初から違和感を抱いていたわけではない。
むしろ、世界とはこういうものだと思い込んでいた。誰もが自分に何かを求め、それに応えることだけが存在理由だと——。
しかし、そんな彼の世界に、たったひとつの「異物」があった。
律という少年だった。
同じ年頃、同じく白い部屋に閉じ込められ、同じように監視されていた存在。だが律は、違っていた。
彼は時折、無邪気な笑顔を浮かべた。意味のない鼻歌を口ずさみ、時には手にした積み木で奇妙な形を作り上げた。
それらはすべて、規範から外れた行為だった。だが律は恐れる様子を見せなかった。
ある日、悠が苦手なパズルに手間取っていたとき、律がそっと近づき、小さな声で言った。
「こうすれば、少し楽になるよ。……内緒な」
その瞬間、悠の中に、言葉にならない衝撃が走った。
それはまるで、凍てついた水面に落ちたひとしずくの熱だった。
誰かが自分に話しかけてくれた——それだけのことで、世界が少しだけ色を取り戻したように感じた。
律の声は静かで、柔らかく、どこか懐かしい響きを持っていた。けれどそれは、施設内では禁じられた「自主的な接触」だった。
それからというもの、ふたりは時折、目を合わせるようになった。
一緒に課題に取り組むことは許されていなかったが、同じ空間にいるときは、互いの存在を意識し合っていた。
それはほんのささいな変化だった。けれど、悠にとっては確かな「つながり」だった。
律は、なぜか笑顔を忘れなかった。
時折、彼は白い壁の一角に指で線を描いたり、自作のゲームを考えて紙にこっそり書いたりしていた。
監視の目をかいくぐるその大胆さに、悠は最初、戸惑いを覚えたが……次第に、それがどれほど貴重なものなのかに気づいていった。
だがその日々は、あまりにも脆く、短かった。
ある朝、いつものように目を覚ましたとき、律の部屋は空になっていた。
備え付けられていたはずのベッドも、教材も、衣服も、何もかもが消えていた。
彼が存在した痕跡は、完璧なまでに抹消されていた。
モニターには、見知らぬ子どもが座っていた。彼の存在に、誰も触れなかった。
悠は職員に問いかけた。
「律は、どこに行ったの?」
返ってきたのは、冷たいひと言だった。
「気にするな」
その言葉に込められた意味を、悠は直感で理解してしまった。
律は「不要」と判断されたのだ。
そして、不要なものは「消される」。
その日以降、悠の中で何かが決定的に変わった。
律が消えた日を境に、悠は誰とも目を合わせなくなった。
部屋の隅で、与えられた課題だけを機械的にこなす。表情を消し、感情を押し殺し、ただ「有用な個体」として振る舞い続けた。
そうすれば、自分は消されずに済む。
律のようにはならない。
——人は、必要のないものを簡単に消す。
それがこの世界の真理なのだと、彼は学んだ。
それ以来、誰かと関わることを避けるようになった。
信じれば裏切られ、近づけば失われる。
それなら最初から、何も求めず、誰も必要とせずに生きる方がましだ。
やがて、彼は研究所を出ることになった。
「社会適応訓練」という名目で、都市の生活環境に放たれた。だが実態は、彼が社会でどう機能するかを観察するための、次なる「実験」に過ぎなかった。
都市の喧騒、群衆の中、無数の無関心な顔。
彼の中では、すでにすべてが意味を失っていた。
誰とすれ違っても、律のようなまなざしは返ってこなかった。
誰の瞳にも、かつて律がくれたような「共感」は宿っていなかった。
今、悠が古びたカフェの隅に身を置いているのも、そうした過去の延長にすぎない。
ここには誰も近づかない。誰も干渉しない。誰も、彼の存在に気づこうとしない。
それが、心地よかった。
それが、唯一の安全地帯だった。
彼は、冷えたコーヒーを口にすることなく、ただ静かに、濡れた街を見つめ続けていた。
かつて律が指で描いた白い壁の落書きのように——この世界に残せる痕跡があるとすれば、それは誰にも見えない場所に、そっと刻まれるしかないのだ。
「……律……」
誰にも届かぬ声が、ふいに彼の喉から漏れた。
その名は、もうどこにも存在しない。
記録にも、記憶にも、証明されることのない幻影。
けれど悠の中では、消えることなく、今もそこにいた。
——続——
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