わたしの中の夏目くん

小乃 夜

プロローグ:雑司ヶ谷、猫、すみれ色の自転車

その朝、世界はまだ湿っていた。

夜半に降り注いだ雨の記憶が、アスファルトの匂いとなって煉瓦色の歩道から立ち上り、東京の空を淡い水彩画のような灰色に洗い上げていた。水たまりが、空の憂鬱を静かに映している。

夏目 栞(なつめ しおり)、十六歳。彼女の世界は、いつも少しだけ彩度が低い。

教室を満たすクラスメイトたちの、中身のない弾けるような笑い声も、スマートフォンの画面を瞬時に流れては消える、おびただしい数の空虚な言葉たちも、まるで薄い硝子戸一枚を隔てて聞いているかのようだった。その硝子戸に触れる術を、彼女は知らない。みんなが笑うから、栞も口角を上げる。みんなが頷くから、栞も小さく首を縦に振る。そういう、巧みな擬態だけが、この十六年間で上達した唯一の技能だった。

(違う。本当は、そうじゃない)

心の中で、いつも小さな反論が生まれては消える。

ただ、古い小説を読んでいる時間だけは違った。インクが染み込んだ紙の匂い、指先でなぞる活字のささやかな凹凸。そこには、一行一行に作者の魂が削り出されたような、ずしりとした重みと、誠実な孤独があった。特に、あの人の本は。

今朝も、読みかけの『こころ』を鞄にしまい、お気に入りのすみれ色の自転車に跨がる。ペダルを漕ぎ出すと、湿った風が頬を撫でていった。

通学路は、雑司ヶ谷霊園の脇を抜けていく。

鬱蒼と茂る楠や桜の木々の間には、苔むした墓石たちが、まるで眠っているかのように静かに佇んでいた。その一角に、あの文豪の墓があることを栞は知っている。自分と同じ「夏目」という姓を持つ、遠い遠い時代の小説家の。時折、その墓石の方へ視線を送り、心の中で小さく挨拶をするのは、誰にも言えない、ささやかな秘密の習慣だった。

(おはようございます、先生)

別に熱心な研究者というわけではない。ただ、彼の描く人間の、どうしようもない孤独や、言葉にならない心の機微に触れるたび、栞はこの百年以上離れた時代の他人に、不思議な親近感を覚えていた。まるで、自分の心の硝子戸の、内側からそっとノックをしてくれるような。

霊園の古い石垣が途切れる、見通しの悪いカーブに差し掛かった、その時だった。

にゃ、と短い、しかし妙にはっきりとした鳴き声がして、視界の端から黒い影が飛び出した。艶やかな毛並みを持つ、一匹の黒猫。それは単なる飛び出しではなかった。まるで、栞のタイミングを正確に計り、世界の法則に一本の線を引くように、この世の理から切り離されたかのように、その場にすっと現れたのだ。

そして、栞は見てしまった。その瞳を。

爛々と輝く黄金の双眸。そこには、百年の歳月を凝縮したような叡智と、宇宙的な悪戯っぽさが宿っていた。

「――あっ!」

思考より先に、身体が動く。栞は右手に渾身の力を込めてブレーキレバーを握りしめ、ハンドルを左に切った。

キィィィッ!

甲高い金属音が湿った空気を切り裂く。タイヤが濡れた路面の上を滑り、すみれ色の車体は、まるでスローモーションのように宙を舞った。

視界が、反転する。

灰色の空、木々の緑、古い石垣。全てが混じり合い、流れ、遠ざかっていく。ごつん、と後頭部に鈍い衝撃。

――ああ、猫は、無事だったろうか。

薄れゆく意識の底で、栞はそんなことを考えていた。

だが、次に流れ込んできたのは、アスファルトの匂いではなかった。

大正五年十二月九日、早稲田南町。

古紙と、墨汁と、そして薬の匂い。

チ、チ、チ、と万年筆のペン先が、最後の力を振り絞るように原稿用紙を引っ掻く、執拗な音。薄暗い六畳の書斎。障子には、ランプの光に照らされた男の影が、激しく咳き込みながら揺れている。知らないはずの記憶、知らないはずの情景。それは、洪水のように栞の意識を塗り潰していく。

胃の腑を焼くような痛み。死期を悟った冷静さと、未だ書き残したものがあるという焦燥。

それは、洪水のように栞の意識を塗り潰していく。やがて、低く、しかし凛とした声が響いた。それは、肉体の苦痛と、そして凄まじいまでの執念に満ちていた。

『…まだ、だ。まだ、書かねばならぬことがある…人の世の、このどうしようもないエゴイズムと、その果てにある孤独を…それが天に背くことになろうとも、構いはせぬ…!』

声は、そこで不意に途切れた。

二つの意識が衝突する。

明治の文豪が抱えた百年分の「業(ごう)」が、黒いインクの奔流となって。

令和の少女が生きる十六年分の、すみれ色の淡い「生」が、か細い光となって。

激しい火花を散らし、混ざり合い、捏ね上げられ、全く新しい一つの魂として再錬成される。

次に夏目 栞が目を開けた時、そこは無機質な白い天井の病室だった。

ツン、と鼻をつく消毒液の匂い。ピッ、ピッ、と規則正しく鳴る電子音。

彼女はゆっくりと身体を起こした。シーツの感触、着せられた病衣の肌触り、全てが異質に感じる。窓に映る自分の顔を見た。見慣れた、少し眠たげな十六歳の少女の顔。

しかし、その瞳に宿る光は、明らかに以前の彼女のものではなかった。

そこには、鋭い知性と、深い憂いと、そして、この世界の全てを見定めようとするような、底知れぬ光が宿っていた。

(軽い…。身体が、羽のように軽い。長年我輩を苛んできた、あの胃の痛みはどこへ行った…? そして、この顔は…誰だ…?)

少女の唇が、かすかに動く。

そして、誰もいない病室に、凛とした声が小さく、しかしはっきりと響いた。

「…むう。どうやら我輩は、とんだところで道草を食ってしまったらしい」


第一章へ続く

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