どこかの街の、ちいさな夏の物語3【#文披31題 2025】

野森ちえこ

Day1 まっさら

『は? 引っ越した? 聞いてないんだけど』

「だから今いってんじゃない」

『どうして引っ越すまえに相談しないのよ』

「お母さん、私もう二十六よ。引っ越しくらい自分できめられるから」

『そういうことじゃないでしょ』


 じゃあどういうことなんだという言葉をぐっとのみこむ。


「ごめん、誰かきたみたい。住所はあとで送るから。じゃあね」


 スマホの向こうでは母親がまだなにかいっていたようだけれど、かまわずに通話を終了させた。ついでにサイレントモードにして座卓の上にふせておく。


 ほんとうは知らせずにおこうかと思ったのだけど、それはそれでバレたときにもっと面倒なことになるかと思いなおした。

 絶縁するまではいかないけれど、できるだけ距離をおいておきたい。私にとって、母親はそういう存在だ。


 生活ごとリセットしたくなって引っ越してみたけれど、結局根っこの部分は鎖でつながれたままのような気がする。本気でリセットしたいなら、それこそ失踪でもするしかないのかもしれない。


 特になにかあったわけじゃない。失恋したわけでも、ストーカーとか空き巣とか犯罪被害にあったわけでも、近隣トラブルにあったわけでもない。そう。なにかあったわけじゃない。なにもないのに、なんでだかとても息苦しくてたまらなくなった。


 縁もゆかりもない、新しい街に引っ越してきて一週間。

 仕事はフルリモートだから生活の場をかえたところでなんの影響もないし、もともと部屋を行き来するような友だちも恋人もいない。

 いったいなんのために引っ越したんだかわからないくらいなにも変わらなかった。


 人生まるごと新しくするなら死ぬしかないのかと、一瞬よぎった思考に苦笑いしてしまう。

 そんないのちを捨てるほどのことなんてなにもないでしょうに。


 ——ほんとうに?


 自問する声に首をふる。ないよ。なにも、ない。

 そう。なにもない。

 なにもないのだ。

 それなのに、どうしてこんなに苦しいんだろう。


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